身の丈八尺の女子力


 十月最初の日曜の夕方は、これまでに比べて日が傾くのが早かった。

 時刻は四時半過ぎ、夏ならまだ高く照っていた太陽は、家路を急ぐように西へ大きく傾く。

 やがて変わる夕暮れは、きっと――――色濃く、紫に近づく。


 長袖Tシャツを着ていても、上着代わりに羽織ってきたジャージでは少し肌寒いかと思ったが、歩いているうちに体は暖まってくる。

 だんだんと色が濃くなっていく空の下、収穫の進んでいる穂波ほなみが朱く染まっていくのを見ながら適当に散歩していると、脇道の側溝でゴソゴソと動く小さな影を二つ見つけた。


「おい」

「わっ……何だ、七支の兄ちゃんかよ。一人で歩いてんの? 寂しいな」

「ひっぱたくぞ悪ガキ。……今度は何やってんだ、お前ら」


 この村の小学生の中で輪をかけてヤンチャな“悪童”。

 そして何故かいつも一緒にいる成績優秀なメガネの男の子“秀才”。

 別に連れ回されてるふうでもなく、いつも好んで腕白わんぱくな遊びをしている二人だ。


「いや、コイツがさー……」

「? あれ、メガネどうしたんだ?」


 “秀才”のトレードマークがない。

 相当に度がきついレンズだったのか、今は随分と目がぱっちり大きく見えて――――ますます、野山を駆け巡るような遊びが似合わない面構えだ。


「落としたんだよ、水路に。流されてやしねーと思うけど……暗くて見つけづらいんだよ。ジミに深いし」

「……よし分かった、お前ら危ないから下がってろ。俺が探してやる」

「え……でも……」

「いいから。俺の方が手も長いし、探しやすい。悪ガキ、お前……近くの家からライト借りて来い」

「うぇい」


 悪童が百メートルほど先にある一軒家に向けて走っていくのを見て、上着のジャージを脱ぎ、肩近くまで袖をまくりあげる。

 残された秀才は目を凝らすように顔をしかめ、何とか自分の目でメガネを探そうとしていたが――――やはり。


「えっと……僕は……」

「いいから、座ってろ。お前、めちゃくちゃ視力悪いだろ。〇.一より下だな」

「え、どうして分かるんです!?」

「まぁ、何となく……危ないから下がってろって」


 向こうにいた頃、よくつるんでいた同級生がいて……そいつの視力は〇.〇二だった。

 メガネを外すと三十センチ先の本も読めないほどで、夜に外を裸眼で歩くと万華鏡でも覗いてるように、街灯も車のヘッドライトも光が散らかって見えて、歩く事すらできなかったそうだ。

 秀才の視線の置き方は、あの時のあいつにとても良く似ていたから、分かる。


「それで、お前……何やってたら落とすんだ」

「ザリガニ、探してて……」

「……そろそろ寒いからやめとけよ。それとメガネには紐つけとけ。暗くなり始めたらやめろよ」


 腕を突っ込んで水路の中を探るが――――掴めない。

 冷え切った水は予想以上に冷たくて、十秒二十秒は耐えられても、段々と指先から痺れて感覚が消えていく。

 そのタイミングで腕を入れ替えて、交互に使っていても――――やはり、行き当たらない。

 駆け戻ってきた悪童がライトで照らしながら探していても、まだだ。

 五分も、そうしていたか――――いったん休憩しようと、ジンジンと痺れる右手を水路から抜いた時。


「……七支くん、ですか? 何しているんです? それに二人……も……」


 土手の上から、高くて澄んだ声が聴こえ、顔を上げる。

 そこにはまるで洗面器でもそうするように、ビールケースを三段積みで抱えた長身の影が夕暮れを背追っていた。


「あ、八尺ねーちゃん……」

「は、八尺なんてありませんから!」

「そうだよ、七尺ななしゃくぐらいだよ、まだ」

尺貫法しゃくかんほうなんて良く知ってるな、お前。さすがメガネ」

「もう、いいですから……。それで、何か落としたんですか?」


 口もとまで伸びた前髪の中から、半ば呆れ、半ば諦めたような問いかけが漏れる。

 八尺ねーちゃん、こと八塩さんも今日は相当に寒かったのか、ウィンドブレーカーを羽織り、ネックウォーマーを首に巻いている。

 腰には実家、八塩酒店やしおしゅてんの印――――“井桁いげたに八”が白く染め抜かれた前掛けをつけて、腰後ろにウエストポーチを回していた。


「ああ、こいつがメガネ落としたってんで……探してたんだ」

「え!? た、大変……!」

「八塩さんは? これから配達じゃないのか」

「いえ、これは空き瓶の回収です。配達なら行きに済ませましたよ。……私も探します」

「え、でも……」

「探させてください。いいですね?」


 三段積みのビールケースを置いた八塩さんが袖をまくり上げると、肘までですら俺の肩口近くまである長く、しかし生白い腕が現れた。

 八塩さんが文字通り手を貸してくれるなら、ありがたいことだ。

 秀才は大事おおごとになってきた事に少し焦っているのか、表情は浮かない。

 そんな様子にすぐ気付くと、八塩さんは水路に向けてかしずくように両腕を突っ込み、探りながら声をかけた。


「大丈夫、見つかりますよ。みんなの秘密にしましょう」


 底には泥も葉も積もっている水路へ、何のためらいもなく腕を突っ込みながら――――八塩さんは、隠れて見えない微笑みを浮かべ、そう言った。



*****


 十分ほどして、少し流された場所から無事に秀才のメガネがようやく見つかった。

 西の夕暮れはもう東の空を紫色に変え、その端はすっかり深い紺色になってしまっている。


「ごめん、ありがとう八塩さん。本当に助かった……」

「いえ、見捨てられる訳ないじゃないですか。困った時はお互い様ですよ。多分、七支くんもそうだったんですよね?」

「……俺は、てっきりタニシ探しでもやってるのかと思って声かけちゃったんだよ。運の尽きだ」


 小学生二人を見送った後、近くにひかれていた水道を拝借して手を洗いながら何気なく世間話。

 見つけてくれたのは結局八塩さんの長い手のおかげだった。


「あ……七支くん、良かったらこれ使ってください」

「?」


 そう言って、八塩さんがウエストポーチから取り出してくれたのは――――個包装された菓子にも見える、淡いピンク色をしたウサギ型の薄っぺらい“何か”……としか言えない。

 掌に収まる大きさのそれは紙のように薄く、袋越しにもほのかな桜の香りがしてくる。


「これ、何……?」

紙石鹸かみせっけんですよ。ご存知ありませんか? 夏、怜ちゃんとお出かけした時に買ったんです」

「紙石鹸……?」


 袋を破いて取り出せば、濡れた掌の上でぬめりながら“桜のウサギ”が溶けていく。

 手の間で擦り合わせるとモコモコと滑らかな泡が立ち、同時に桜の香りが更に濃く立ち上ってきた。

 そういえば、駄菓子屋さん……“石川商店”でも、壁面に下がっていたような気もする。


「へー……便利だな。いつも持ち歩いてるの?」

「はい。それにしても凄かったです。可愛いのがいっぱい売ってるんですね……村の外」

「ちなみに、他には何買ったの?」

「うーん……覚えてないです。はしゃいじゃって気づいたらいっぱい……あ、それと“クレープ”っていうの初めて食べましたよ。イチゴにキウイ、アイスに生クリームにサクランボまで載せて……凄かったなぁ。この村にもあのお店あればいいのに」


 咲耶は、“花子さんとの約束”のせいで村から出られなかった。

 だから、きっと――――八塩さんも、そうする訳にいかないと思って押し込めていたのかもしれない。

 今、声を弾ませて語っている八塩さんの姿も……もしかすると、見られなかった。


「ところでさ。八塩さんは……俺の事、覚えてたのか?」

「? はい、勿論……」

「その、さ。俺が神居村に帰ってきた時……どう、思った」


 自分だけのうのうと村を出ていった俺を、どう思っていたのか。

 そして厚かましく、能天気に帰ってきた俺には――――どうだったのか。


「……色々と複雑でした。正直なところ……私、もしかすると七支くんを嫌いになっちゃうかもしれなくて、自分が嫌でした。……でも、吹き飛んじゃいましたよ」


 蛇口から出る水の音にかき消されながらも、その言葉は不思議と聴こえた。


「でも、……嬉しかったです。怜ちゃん、よく笑うようになってて。……たまに、そんな怜ちゃんと七支くんを見ていてむしろつらかった時もあります。でも気づいたら、全部解決しちゃってて」


 いつか、聞いた事がある。

 もしも“花子さんとの約束”が果たされる日を迎えてしまったら、どうなるのかと。

 一応は人を集めて咲耶を守ろうという動きはあったが、“防げない”と皆薄々分かっていたとの事だ。

 “花子さんに連れて行かれる”のは、妨げられない。

 触れるだけで、人も物体もどこかに跡形もなく消し去られてしまう。

 過去二度出現した“花子さん”、この国で最も有名な怪談で、この村の最大の禁忌に立ち向かう術はない。


 しかし、最大の誤算はあの“幽霊刀”の存在。

 靄のような霊体の刀身は、全てを消し去る“花子さん”にすら届き、一方的な約束ごと、この村に良く出る怪談話の一つとして切り捨てる事ができた。


「……私は七支くんを嫌いにならずに済みましたし、また仲良くなれました。……だから、私は今、すごく嬉しいです。……ところで話は変わりますけど、七支くんは何を? どこかに行く途中でしたか?」


 手を洗い終え、再び八塩さんがひょい、と荷物を抱え上げる。

 中身が空とはいえビール瓶の詰まったケースが、三段。

 相当重いはずなのに――――八塩さんは涼しい顔で、片手で、まるで空の洗面器でも持つように軽々とだ。

 もし空き瓶でないとしても、八塩さんは軽々と持ち上げるのだ。

 いや……“持ち上げる”という意識すら、なく。

 彼女が持った“力”は、文字通り。

 中身入りのビールケース十段を軽々と持ち上げて歩き、側溝にハマっていた軽トラをあっさり担ぎ上げ、道路上になぎ倒された倒木も小枝のようにどかしてしまうのを見た。


「実は、今……村に、碧さんが帰ってきてるの、知ってる?」

「え!? そうなんですか? いつから……?」

「今日、ついさっき。押しかけられてさ……気分転換に散歩してたから、別に用事はないよ」

「押しかけられ……」

「秋の祭り。あれ目当てでいったん帰ってきたんだとさ」

「ああ、なるほど……そういう。でも、気持ちは分かりますね。知ってますか? この村のお蕎麦そば、おいしいんですよ」

「へぇ。好きなんだ?」

「はい。私……お蕎麦好きで。ついつい食べ過ぎちゃうんですよね、あれだけは」


 気弱で、優しく、冗談にならないほどの怪力を持つ女の子は、黒子の頭巾みたいな前髪の中でそう語る。

 何気なくついていきながら、とっぷり日の落ちた道を談笑しながら歩く。

 思えば、八塩さんとはあまり話した事がなかった。

 あまり話題を振ってこないタイプで、いつも間に咲耶か柳、あるいは両方がいた気がして……二人で話す、という事はまずない。

 八塩さんも家の手伝いで忙しいから、余計にだ。

 そんな貴重な機会で……思ったより、会話は弾む事にも驚いた。


「あの、ですね。私……その、探るわけじゃないんですよ?」

「何が?」

「いえ、その……ごめんなさい、本当にごめんなさい。もし、イヤだったら言ってくださいね、ごめんなさい!」

「だから、何が……?」

「……訊いても、怒りませんか?」

「さぁ……。で、一体何が?」

「……七支くんは、怜ちゃんの事、どう思っていますか?」


 沈黙。

 柳や碧さんならともかく、八塩さんにまでそんな事を訊かれるなんて思ってもみなかった。

 答えは言うまでも無い。

 言うまでも無い事だからこそ、口に出して言える勇気がなかなか持てない事もある。

 とはいえ、さっきの吐露を聞いていながら黙り込むのは卑怯だ。

 これは――――はっきりと答えるしかないタイミングだ。


「七支くん? お、怒ってます? ごめんなさい、すみません……すみません……!」

「いや、答えるよ。ハッキリと」


 ――――意を決し、息を吸い込む。


「俺は。咲耶が、す――――」


 ――――そのタイミングで、ちょうど点いた街灯の下に転がっているモノを見て絶句に繋がった。

 良いタイミングか、間が悪いのか、どちらとも言えない。

 八塩さんも隣で息を呑み、それに目が釘付けにされているようだった。


『――――アタシ、リカちゃん。でも、呪われてるの』


 少女の着せ替え人形が、舗装された路面に無造作に転がっている。

 脚の本数は、奇数・・

 やがて、ふわりと立ち上がると――――下手くそな傀儡くぐつのようないびつな動きで、かたかたと歩み寄ってくる。

 小さな手には、カッターナイフ。


「……“三本脚のリカちゃん人形”か」







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