八塩沢子初めての遅刻、神奈柳初めての欠席
ところが、木造校舎の軋む床を踏み慣らして、学校中に響く勢いで走りつき、教室の戸を開けたというのに……柳も、八塩さんもいなかった。
思わず戸口に立ったまま、後列の机二つを見やるも、そこにはカバンも置いていなければ、椅子を引いた形跡もない。
時刻は八時十分過ぎ。
「っ……キョーヤ、君……! 言い逃げなんて酷いだろ! ……? どうかしたの?」
「あ、いや……誰も来てないんだ。まだ」
「え……?」
俺の言い逃げに追い付いてきた咲耶が後ろから教室を覗き込み、訝しむ。
恐らく思い浮かべた言葉は、俺と同じだろう。
「珍しいね。柳のヤツはともかく、沢子がこの時間にいないなんてさ」
「まぁ……まだ時間あるだろ。寝坊したかもしれないしさ、二人とも」
「それこそ、沢子が寝坊なんてするかなぁ……?」
「でなきゃ、ハマった軽トラを見つけちゃったとか」
「ああ、それは……あるかもしれないね」
それきり、玄関で晒したみっともなさは忘れてくれたのか、それとも気付かないフリをする事に決めたのか――――咲耶はカバンを下ろし、マフラーをほどき、朝の準備を始めた。
しかし、待てども暮らせども――――二人とも、姿を見せる気配はない。
とうとう予鈴が鳴り、教室前部の戸を開けて、先生が入ってきてもだ。
「はい、席について。……出席率五十パーセントか。学級閉鎖なんてせんからな、一人でも来ていればな」
入ってきた、細っこい“お爺ちゃん先生”と呼べる風体の担任の先生。
きちんとアイロンのかかったスラックス、黄色と白のボーダーのポロシャツの上に、毛玉の浮いたカーディガンを着込んで人のよさそうな顔に皺を刻み、薄くなった白髪を後ろへ撫でつけている。
この学校に四人きりの教師のひとり、現文、古典、日本史、世界史を教える
「先生、二人……どうしたんですか?」
「おう。神奈の
訊ねた咲耶へ、先生は老い山羊のような白い睫毛を揺らして面倒くさそうに答えた。
「なんでも、三十八度の熱だと。珍しいな、あの野郎め」
「それで、沢子は?」
「さぁ。何も連絡来てないわな。クマでも出たんじゃねぇかな。ホレ、出席は取った。今日は特に伝達事項なし。一限目始めるぞ」
生徒数四人、という人数のせいか――――担任は一応決まっていても、相当にこの学校はゆるい。
一限目を受け持つ先生がそのままホームルームをやり、授業に突入する事も珍しくないのだ。
一限目が体育の時など、校庭でホームルームをやる事もある。
“一限目を受け持つ教師が務める”という不文律があるのだろうと思う。
そして、三人しかいない教室で現代文の授業が始まる。
八塩さんは、一限目の終わり際に教室に入ってきた。
*****
「沢子。いったいどうしたの? 遅刻なんて初めてじゃないか。寝坊したの?」
「あの……いつも通りの時間には、出たんです……けど……」
初めての“遅刻”に、八塩さんは動揺しているように見えた。
もちろん前髪に遮られて顔は見えないが、その中では恐らく苦い表情を浮かべている……気がする。
ほんの一度の遅刻で気に病んでいる彼女を見ると……爺さんの葬式にかこつけて何日も学校を休んだ自分が、恥ずかしく思えてきたほどだ。
「実は、来る途中で……平田さんのお爺ちゃんが、足捻挫してたんです。それで、その……私、おぶって……家まで、お送りして……」
――――天使か、この人。
「それで遅れたのか。大丈夫かね、あの爺ちゃん……それきっかけでボケ始まったりとかしないだろな」
「しないしない。この村のお年寄りは誰もボケたりしないよ。しぶとすぎてさ。……あれ?」
「怜ちゃん?」
意味深な呟きとともに、咲耶はしばし押し黙る。
「……おかしいな」
「咲耶、どうかしたのか?」
「いや、あのね。平田さんのお爺ちゃんになら……御守りを渡してあるんだよ。健康祈願」
「いつの事だ?」
「確か、
勿論、咲耶の作る御守りはただの願掛けとはまるで違う。
身に着けていれば本当に病気にならないし、ケガも防ぐ。
ただ、三ヶ月程度で効果がなくなるらしく――――それを目処に村民は買い替え、代わりに使っていたのを奉納する。
「――――そうだ、柳にも。先月渡してあったはずなのに。何で、アイツ……風邪なんかひいてるんだ?」
「風呂入って素っ裸で寝たんじゃないか。ちょうど冷えただろ、今朝は。それに、万能ってワケじゃないんだろ?」
「そりゃあ、まぁ……流石に重すぎる病気は防げないよ、ボクのでもさ。でも、風邪だよ? 風邪……だよね?」
悪い予想でもしてしまったのか、咲耶の表情が曇り、つられて八塩さんも更に俯いた。
インフルエンザ程度までなら防げても、ガンは防げない。
感染する病気は防げても、不摂生や遺伝から来る病気は防げない。
いくらかの制限はある、という話はいつか駄菓子屋の店先で聞いた覚えがある。
「……疲れが溜まってたのかもな。あいつ、いつも働き過ぎなんだよ」
そう、としか慰めようがない。
実際、柳はいつも忙しくしているくせに、不平の類いは全く垂らさない。
知らず知らずに疲れが溜まって、今噴き出たんだろう――――としか、言いようがなかった。
「心配……ですけど、気にしててもしょうがないよ、怜ちゃん」
「うん、ありがと……沢子。それにしても……本当、珍しい事もあるね」
「柳が初風邪、八塩さんが初遅刻か。……気にすんな、偶然だ、偶然」
と言っても――――心配なのは、同じだ。
あいつが風邪をひくというのも、御守りを持っていたはずなのにそうなるというのも、どちらもピンと来ない。
明日も休むようなら様子を窺いに電話を入れてみようと、少しずつ日が高くなり暖まってきた教室の中でぼんやりとそう考えた。
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