咲耶怜、秋の装いにて

*****


 十月最初の日は、まるで名目でも得たように妙に肌寒い朝を迎えて、薄物のタオルケット一枚ではどうも体が冷えて身震いしながら目を覚ました有り様だった。

 掛け布団を出して二度寝でもしようかと思ったが、時刻は六時半。

 二度寝をやらかせるだけの時間があるとは言えないから、さっさと観念して起きる事に決めた。


 一階の居間に降りると、二階よりも更に寒い。

 起き抜けに部屋着のジャージを羽織ってきたのは英断だった、と思いながら、ひとまずはテレビの電源を入れた。

 おなじみの朝の情報番組の中には、朝から朗らかな笑顔を浮かべた男のアナウンサーがどこかの田舎の祭りを紹介していた。

 画面の下には日本各地の今日の天気がテロップで表示されていた。

 それによると、この村――――というか、東北全体が今日は冷えるそうだった。

 久々にブレザーの出番にすると決めて、朝の支度を終えた直後、いつもより早くにベルが鳴って……玄関に出ると、ガラス戸にいつもの姿が曇って見えた。


「カギなら開いてるよ」

「あぁ、うん……分かってるけどさ。おはよう、キョーヤ君。今日は寒いよ。あったかくして行きなよ」


 立て付けの悪くなった横開きの戸をおずおずと開けて、咲耶が入ってくる。

 少し離れた距離から歩いてくる咲耶もきっと、厚着――――それも、柳から聞いた通りの格好をしているのだと思ったら、違った。


「……え?」

「え、って……何、キョーヤ君。どうしたのさ?」

「そのカッコ……え……?」


 思わず……認めよう、俺は目を奪われた。

 脚は薄手の黒ストッキングに包まれて、いつにもましてスラっと長く、くっきりと細く際立っていて……キャンバス地のスニーカーの赤まで強調されているようだった。

 やや厚手の白いセーターもよく似合い、紺と白のチェックマフラーも、咲耶の細面ほそおもての顎にかかっていて、ただでさえ小さな顔が、更に小さく見えるようだった。

 まだ昇りきっていない太陽の光が、秋の装いに変わった咲耶を戸口に横から照らして……何とも言えずに、見つめてしまった。


「ん、んっ……さ、行こうか。早く準備しなよ」


 咳払いを繰り返し、落ち着きなく髪の毛をかき上げる咲耶に急かされた。


「あ、えっと……ちょ、っと……待っててくれ。カバン持ってくる、から」

「? もういいの? 上着だけじゃ寒くないかい?」

「いや、マフラーとかは……ちょっと今は探す時間ない。帰って来たら出すよ」

「カーデは?」

「昨日洗濯しちまった。まだ必要ないと思ってたし……ま、大丈夫だろ一日ぐらい。どうせ帰る頃には暖かくなってるだろ」


 深緑のブレザーのボタンを気持ち程度に締めて、カバンを肩にかけて外に出ると……朝の冷えた空気をもろに深く吸い込んでしまい、一瞬、えずいて・・・・しまった。

 戸が開いていても家の中の空気と、外の空気とではあまりに違う。

 咲耶の怪訝な視線を感じながら後ろ手に戸を閉め、とりあえずいつもの通学路についた。


「いきなり秋っぽくなっちゃったねぇ。あぁ、ボクやだなぁ、寒いの。それにさ、この村、めちゃくちゃ雪降るよ?」

「へぇ……。爺ちゃん家にいた時は、降っても積もらなかったから楽しみだ」

「そんな事も言ってられないぐらい積もるんだってば。今はそんな事ないけど、昔は家の一階が埋まるぐらいで、二階のベランダから出入りしてた事もあるってさ」


 それはそれで――――楽しみだけれど、楽しめるのも最初の数日に違いない。

 しかし、改めて咲耶の服装を見ると意外だ。

 今までが薄着というか素肌の面積が多かった分、逆に今どうしても視線が引き寄せられるようだ。

 そこで、“柳の予言”を思い出して――――少しだけ、意地悪が言いたくなる。


「ジャージじゃ、ないのか?」


 咲耶の顔……マフラーと横髪の間から覗ける頬が、ほんの一瞬、紅潮するのを見逃さない。

 加えて気付いた事もある。

 いつもの、咲耶からする桐箪笥きりたんすみたいな優しくてほっとする匂いが漂ってこない。

 今感じるのは開けたて新品の服の無機質な匂いだ。

 流石にそれを口にするのはやめておくとして……咲耶の出方を窺っていると。


「……何を言っているのかな? ボクの普段着だよ、これはさ」

「えぇー……」


 まさかの――――全面否認。


「いや、でも……柳が、寒くなってくると咲耶はスカートの下に長ジャージ穿くって……」

「キョーヤ君。ボクはそんな恰好をした事なんてない。いいね?」

「……あ、はい」


 一瞬だが間違いない、あの目は昔の咲耶のそれだった。

 田舎の村のガキ大将、見た目が可愛いだけのジャイアンだった時の“リョウねぇ”の眼光だった。

 思い出しかけた嫌なトラウマを相殺しようと何か話題を探そうとすると。


「ところでさ、柳と何か話したのかい? 神居北小で」

「ん? んー…………」


 流石に、“生足うんぬん”の雑談なんて言える訳ない。

 あの時は、柳がそういう類の話を振ってきた事が珍しいし、何か嬉しかったから俺も割とギリギリな発言をしていた気がする。

 “タイツの脚も悪くない”とまでは頭によぎっても、言えなかったのは俺のブレーキが何か働いていたと今は思う。


「……あーあ、ズルいなぁ男の子はさ。ボク、仲間はずれだー」

「男同士でしか話せない事もあるんだよ。柳もきっとそうだったんだろ」

「まぁ……アイツ、いつも冗談が硬いんだよねぇ。どこか遠慮してたって……いうか。こないだのキミへの悪戯だって、あんなの初めて見たよ」


 確かに、それは分かる。

 あいつは罪のない冗談を好むカラっとした男だけど、その実、どこか事務的に見えてもいた。

 空気を軽くしなくちゃいけない、そんな気配りのような義務感の冗談に、たまに見えた。

 咲耶の事を、あいつと八塩さんも、この村の人達もずっとあの夏は引きずっていた。

 その重荷が無くなったからか――――今あいつの話すネタは、本当にただの“軽口”。

 鉄面皮がたまに歪むし、シャワーの“覗き対策”を渡してきた時、間違いなくニヤリと笑っていやがったのだ。


「で、男同士の話って何なのさ? まさか……エッチな話でもしたのかい?」

「したよ」

「あははっ、なんて……え?」

「したよ。聞きたいか?」

「え、いや……あれ、本当に? え? 嘘……?」


 実際したよ、そういうハナシを。

 お前の露出度、生足についてだ。

 と――――そう続けてやりたかったが、叶わない。

 咲耶は俯き、黙り込み、見える手も顔も火が出そうに赤くなっているのが、黄色みを残した朝日に照らされていた。


 何となくつられてこちらまで照れてしまい――――そのまま互いに無言で、田んぼ二枚ほどの間をチンタラ歩く。

 その間、オート三輪に二回追い越された事、俺達が紅潮して変な雰囲気を出していた事を、寄り合い所に顔を出した時に聞かされる事になるが――――それは、別の話だ。


「そ……と、ところで、キョーヤ君。聞いてる? 秋の祭りの事だけどさ!」

「ああ……十月の終わり際にあるヤツだろ?」


 さして娯楽の無いこの村のイベントのひとつ。

 “神居村秋の紅葉もみじ祭り”の事だ。

 内容は、特産の山菜やキノコ、収穫された秋の味覚、打ち立てのソバなんかを味わいながらの紅葉狩りのようなものだそうだ。

 もちろん酒も振る舞われて、のど自慢大会も催され、ちょっとした型抜きや射的、ヨーヨー釣りに金魚すくいなんかの屋台も出る。

 夜祭とは違い、朝九時から夕方まで、およそ土日の二日間にも渡って賑わう文字通りのお祭り騒ぎだ。

 去年は隠し芸大会で“ヌンチャクでの目隠しロウソク消し”で物言いがつき、不正が発覚して揉み合いになったとかいうオチまでついたとか。

 それでも最後は飲み比べで事態を収めたあたりが、この村らしいとも思う。


「ボク達は手伝いに駆り出されるよ、もちろん。この村、若い子少ないからね。小学生のコ達まで大わらわさ」

「だろうな。でも、何すりゃいいんだ?」

「何でもさ。ソバ茹では鬼燻おにすべさんトコがやるけど、キノコ汁作ったり色々下処理手伝ったり、会場設営とか、後は……いや、ゴメン。全部だったね、うん」

「随分働かせるな!」

「仕方ない、仕方ない。若い労働力なんてこの村じゃ貴重なのさ」

「俺……山菜の下処理なんて、この村来て初めて覚えたぞ。大根干しとかなんとか、十代の男子が覚えるような事かよ」

「覚えればきっと豊かになるさ。いいお婿さんになれるね」

「……いい嫁さんの方が欲しいよ、俺は」


 何気なく話しながら歩いているうちに、電柱から電柱へ飛び移りながら中学校までの方角を跳び去っていく、“中二の問題児”の姿を視界の端に留め、だんだんと母校の木造校舎が近づいて行く。

 もう少しすれば、裏山は紅葉して、この古めかしい校舎も化粧する。

 俺は、それが……楽しみで、仕方ない。

 大雨の翌日、水はけの悪い校庭に映る鏡写しの逆さの校舎は、俺の携帯の壁紙に設定してあるぐらいだ。


「…………咲耶」

「んー?」


 すっかり、元の調子を取り戻した咲耶に――――言い忘れていた事がある。

 玄関に入り、そそくさと履き替えてから……意を決して、言う事にした。


「咲耶。……似合ってる。すごく、可愛い」


 自分でもちょっとないな、と思うぐらい――――ぎこちない、片言に近い言葉になった。

 背後で言葉を失っている咲耶の気配を感じて……俺は、逃げるように教室へ向けて足早に向かう他なかった。


「…………え、あ、ちょ!? きょ、……待て、キョーヤ! ちょっと!」


 待つわけにいかない。

 裏返った声を浴びながら、俺はひたすら走ったが――――十数秒後にまた教室で対面する事になる事も、忘れていた。


 ――――血相を変えて飛びこんできた俺を、柳と八塩さんが見逃すはずもない事も。






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