第二章 秋の日々

いつもの畑仕事


 あの騒音対策の日から少し経つ九月の最終日の日曜、俺はいつものように、隣……と言っても少し離れてはいるが、ともかく隣に住む婆ちゃんの畑仕事に付き合っていた。

 しゃがみ込んだまま背筋を反らすと、バキバキと音がして気持ち程度にほぐれて楽になれたが、それも束の間、ごまかしに過ぎない。

 とっくに作業着の下のシャツは、絞れば出そうなほどじっとりと汗で濡れて気持ち悪い。

 労働の汗と言えば聞こえはいいが、それでも暑いのはまったく変わらない。


休憩きゅうけいすべ、七支ななつかくん。お茶淹れっがら」

「はい、いただきます。にしても……暑いですね、婆ちゃん」

「だない。……近頃は秋と春がみじかぐでなぁ……いぎなり夏、冬、夏、冬、って。婆ちゃんお迎えさ来でまうべ」

「は、ははっ……」


 ――――お年寄りの自虐ジョークは、いつもリアクションに困る。

 婆ちゃんについて行き、母屋の縁側に腰かけて軍手を脱ぎ、首の手ぬぐいをほどいて額に浮いた汗を拭ってようやく一息。

 第五土曜の半ドン登校日の翌日、せっかく休めた日曜の朝から――――厳密に言えば前日の夜に、惣菜のおすそ分けの引き換えに頼まれてしまったのだ。

 断ればいい、と言う人もいるんだろうけれど……この九十近い“婆ちゃん”に野良仕事の身なりで風呂敷包み片手に頼まれて断るのは、ムリだろう。

もっとも受けたら受けたでトンでもなく遠慮なくこき使われるから、毎度後悔するのはご愛嬌・・・というヤツにしておく。


「七支くん、北校きたこうさ行ってぎだって?」

「ええ、ピアノが夜毎に鳴ってうるさいってので……。いただきます」


 昭和に流行ったような、せたヒマワリ柄のグラスから麦茶を一口。

 キンと冷えた麦茶は一瞬でなくなり、煮えるように熱い喉が、その一瞬ですっかりと冷えた。

 一緒に置かれていた干し柿に手を伸ばし、かじると……これもまた、噛むほど口の中が甘くなる、くせになる美味しさだった。

 噛み締め噛み締め飲み込んだ時、そして……予感がして、つい疑問を口にしてしまった。


「……あの、婆ちゃん。この干し柿って……」

「干す時、手伝ってくれな?」


 完全に飲み込んでしまった俺に、婆ちゃんは……ニヤリと笑い、そう告げる。

 いつもだ。いつも……ハメられる。


「それにしても、なんで……神居北小に、あんなに“ピアノの怪”出たんですかね?」

「さてなぁ。考える事なんて、婆ちゃんわがんねっから。……疲れたんがなぁ」

「疲れた?」


 麦茶のおかわりを注いでくれると婆ちゃんは縁側に正座し、ずずっ、と自分の分の麦茶をすすって空に目をやる。


「ほれ、ピアノって……どごにでもあんべな。日本中、どごの学校行っでも」

「まぁ、そうでしょうね」


 音楽室のない学校はない。ピアノのない学校はない。

 グランドピアノ、アップライトピアノ、電気オルガン、パイプオルガン、色々と変化はあれども……鍵盤楽器は、どこにでも必ずあるし、学校からピアノが消える日は来ないだろう。


「ピアノの無い場所……に、来たかったんでしょうか?」

「かもない。でも……なぐならんべなぁ、ピアノのおっがね話、なぁんで」


 口裂け女や人面犬、てけてけの怪とは違う。

 学校にピアノのある限り、決して“鳴るピアノの噂”は日本から消える事は無いのかもしれない。

 実際、俺は今でも音楽室の不気味な静謐を思い出せる。

 向こうの小学校にいた頃、学芸会の器楽、その朝練習に一番乗りした朝の事だ。

 誰もいない冷え切った音楽室の空気は肌をヒリつかせたし、もちろん電灯も灯っていない。

 だだっぴろい音楽室の壁には音楽家の肖像があって、穴だらけの防音素材の壁に囲まれているから校舎の音も、外の音も――――何も、聞こえてこなくて。黒光るグランドピアノは、勝手に鳴り出しそうで。

 一番乗りはしても俺はあの空間に一人でいるのが耐えきれなくて、誰かが来るまで、音楽室の外で待った。

 運よく、五分ほどすれば鉄琴てっきん担当の女子と教師が来てくれたから良かったものの、あの五分は長かったし――――廊下は、寒かった。


 口裂け女や人面犬は、すたれる。

 だが、音楽室そのものに宿る怪談は、決して廃れる事は無い。

 子供達の噂を呼び、怖がられ、また怪談が生まれて、“ピアノの怪”が現れては消え、この村で再び現れ、今度こそ消えていく。

 あの叩き壊した“ピアノの怪”たちは、せめて、自分たちがいた学校……それも、自分たちが生まれた理由のない学校に行きたくて、引き寄せあったのかもしれない。

 もう怖がられたく、なくて。


 ふと、夏祭りの夕方に出会った口裂け女の……ぞっとするような裂けた口に浮かぶ、切なげな微笑が思い出せた。


「それでも……近所迷惑なんだよなぁ……」


 しんみりした気分もそこそこに、周囲の世帯からの苦情の内容が脳裏をよぎる。

 夜毎に鳴ってうるさい、大人が止めに行っても何も出なかった、ようやく赤ん坊の夜泣きが落ち着いてきたのに逆戻りした、テレビの音が聴こえない、誰か行ってあれを叩き壊してくれ、と。

 “怪物退治”と言えない事もないがカッコよくもなければそそられもしない、草取りの親戚みたいな仕事だったと今は思う。

 もっとも……“モノ壊しのモコ”ちゃんだけはこのテの事にいつも乗り気で、だからトラブルメーカーの上に反省しないあの子も何となく許容されているのだ。

 口上をいつも述べる悪癖があるうえ、しかも周回遅れのさぐり探りの中二で語彙力があまり無いあの子でも、だ。


「さ、七支くん。仕事の続きだ。今日は早めに上がるべ。ごめんなぁ、朝っぱらがら付き合わして」

「いえ、どうせ……特にやる事もなかったですから」


 立ち上がった婆ちゃんに続くように、手ぬぐいをまた首に巻いて襟にしまい、置きっぱなしだった軍手を掴んで立ち上がり、脱いでいた帽子を頭に乗せる。


 その後も土をいじり、掘り起こし、ようやく解放されて“おもたせ”の野菜の袋詰めを片手にとぼとぼと歩いて帰宅すると、台所の方からゴソゴソと硬い音が聴こえてくる。

 玄関には見慣れた靴がある。

 ずっと、起きてから何か引っかかりがあったのがようやく思い出せた。

 今日は――――次の日曜・・・・だった。


「おけぇり、ナナ。お前、家いろっつったろーが……」

「ごめん、柳! 隣の婆ちゃんに頼まれちまって忘れてた!」


 ひょっこりと奥から顔を出した柳に詫びながらついていくと――――もう、ほとんど組み上がっていたところだ。

 台所の一角に、真新しいガラス張りの“シャワー室”が鎮座している。

 ピカピカのシャワーヘッド、中には鏡と、ご丁寧にシャンプー他を置いておける棚までついている……古びた木造の我が家に似つかわしくない、文明の利器だ。

 が――――違和感。


「柳、お前……これ、目隠しとか……」

「完全透明タイプしか取り扱いなかったんだよ。文句は取り寄せたうちのクソ親父に言え。別にいいだろ、一人暮らしなんだし」


 中の様子がありありと覗けるのは、ルームを構成するのが曇りガラスでもなんでもない、ただの透明なガラス板だから。

 つまり、入浴中の姿が外から丸見え。

 流石にこんな台所の奥まで入ってくる不意の来客者はそういないだろうが――――いや、違う。けっこう平気で入ってくる人間が多い!


「家のカギちゃんと閉めとけばいいだろ?」

「カギ閉まらないんだよ、ウチは!」


 玄関のねじ鍵は擦り切れてバカになっているから、用を為さない。

 棒か何か押し込むだけで開く、信じられないような代物で……ここは、セキュリティだのプライバシーなんてどこに飛んで行ったか分からない家だ。


「……怒るな、冗談だ冗談。安心しろ、俺を誰だと思ってやがる? ちゃんと対策はしてきた」


 さすが、柳だ――――と安心した瞬間、差し出されたものを見て再び絶句する。


「コレ、台所の戸に掛けとけ」


 “入浴中”と油性マジックでデカデカと書かれた木板を。







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