鳴るピアノの怪は近隣住民の苦情とともに
*****
小学校の統合に従って廃校になった、その経緯は知っているが……実際に来るのは、初めてだ。
「……開校は明治だったか大正か、八十年代にあえなく廃校、その後生徒は現在の村立神居小学校へ移る、だったかな」
思い出しながらカブの後席から下り、凝った腰を伸ばし――――夜のとばりが降りた田舎にそびえるそれは、二階立ての木造校舎。
以前一度だけ見た時には切妻屋根に朱色の
いい色に
比較的近くに民家は多いのに、そのささやかな生活光ではとても照らしきる事ができないようだった。
「……柳。多くないか」
「多い? 何が」
長柄の軍用スコップを槍のように担ぎ、胸ポケットにクリップ型のライトを装着し、バッテリーを確認する柳に問いかけた。
どうも、釈然としないものがあったからだ。
「この前、お前と一緒に入った
「まぁな。……でもな、その答えは単純なもんだ。変に裏を探ろうとするなよ、ナナ。単純な答えなんだよ」
「っつーと……」
イマイチ、言わんとするところが掴めずにいると、肩をすくめて続ける。
「ひとつじゃ足りなかった時期もあったって事よ。ほら行くぜ、ライトあるな? それと、こいつを持っていけ」
柳がザックから二つ取り出した機械は、一昔前の携帯電話の大きさに似ていた。
掌に納められる大きさで、突起が長方形の上部から十センチほど突き出ていて――コイル状になったストラップがついていた。
「トランシーバー……ってやつか? それ」
「ああ、見るの初めてか? 簡単だよ、横についてるスイッチを押しながら喋るだけだ。チェックしろ」
電源を入れ、ゴム製のスイッチを押しながら喋りかけると、柳の持つ側のそれから自分の声が聴こえる。
存在は知っていても、使うのは初めてだ。
携帯電話の使えないこの村では、貴重な通信手段のはずだ。
「あ、あー……あー……チェック、チェック。よし、通ってるな。離れすぎると使えないからな、まぁ大体この学校の敷地内なら通るはずだ。それと、喋り終わったら“どうぞ”を付けろ。一度に一方向からしか通信できねェから注意だ、電話じゃない。念のため予備の電池も持っていけ、ほら」
「了解、早く行こう」
柳も無線のチェックを済ませ、予備の単三電池を受け取りズボンのベルト通しにストラップをくくりつけて俺達は廃校に踏み込む。
もはや、靴の履き替えも必要ない場所。
もう、靴箱には上履きのひとつも残っていない、かつて“学校だった場所”へ。
そこに往時の賑わいの香りはない。
靴箱の棚のいくつかに貼ってある、剥がれかけたラミネート済みの名札はカサカサに縁が丸まって、今にも飛んで行ってしまいそうに見えた。
せめて、玄関先にあるマットで靴底の土を気持ち丁寧に拭って、上がる。
電気を付けると何も現れないから、一切の照明が落とされている廃校へ。
ここで起きた怪異は、“真夜中に鳴るピアノの怪”。それを収拾に来た目的は、何一つとして崇高なものでもなく、“近隣住民からの苦情”。
つまりは、近所迷惑だから誰かどうにかしろという事だったのだ。
比較的近くに民家が多くて、そのうち一件には生まれたばかりの夜泣き盛りの赤ん坊までいて、嫁さんが参っていると。
全国区で常連の、学校の七不思議。子供達がいつか恐れ
そして、この村での怪現象の収拾手段はただひとつ。
――――“暴力”だ。
使われなくなった校舎には、子供達の汗のような、立つ埃のような匂いはもうない。
うっすらと漂う経年した木材の甘いような香りと、静謐な空気が漂うだけだ。
もう二度と、子供達の歓声が聞こえる事の無い、“役目を終えた地”。
かつて訪れた山中の荒んだ廃墟とはまるで違う、優しく哀しい佇まいを伝えてくるようでもあった。
「……村に来たばかりの頃は、夜中の廃校なんて……多分、ゾッとしなかったろうな」
クリップ型のライトをつけ、先頭を歩く柳にそんな話を振る。
自慢じゃないが、俺は暗い建物の中をライトを頼りに歩くなんて……そんな経験、無かった。
今ではすっかりと慣れてしまってまるで怖がれない。
実際にそこで出会う怪異に慣れてしまい、変に擦れ涸らしてしまったから……もう、生半可な事では驚けなくなってしまった。
洋裁バサミを片手に夕焼けに佇む口裂け女と出くわした。
首なしライダー、ムラサキババァ、ターボババァ、あぎょうさん、人面犬、三本脚のリカちゃん人形――――トイレの花子さん。
どれも――――知っているからだ。
「まだ何も聴こえないな。どうだ、ナナ」
「いや、何も。手分けするか?」
「聞こえてからでいいだろうよ。注意だ」
あの夏の夜に踏み込んだ廃墟とは、まるで違う。
使用可能な備品の多くは神居小に移されたと聞いたが、往時の姿を可能な限り残し、保存しているのだろう事が分かる。
軋む木目の床は艶々に磨かれているし、廊下に並んだキャビネットの中には、郷土資料や百科事典が並んでいるし、ガラスは一枚も割れていない。
“ほけんしつ”、“こうさくしつ”、“○ねん○くみ”、どれひとつとして漢字の使われていない木製のプレートが扉の上に立てられている。
行きがけに何気なく教室を覗き込めば、恐らくもう映らない――――ガチャガチャとダイヤルを回してチャンネルを変える、古くて厚ぼったいブラウン管のテレビが寂しげに、もう歓声の聞こえない教室を一望していた。
ここは――――山間の隠れ里、この村の中でも、それでも置いてけぼりにされてしまった空間なんだろう。
少し感傷に耽り過ぎた、と思った時……おもむろに、前を歩くスコップ男から声が投げかけられた。
「……聞いてんのか、ナナ」
「あ……? 何だ、ごめん」
「肝試しもいいが、人の話ぐらい聞いとけよ、おい」
「こんなの今さら肝試しにもなるかよ。それで、何」
「来週あたりからグッと気温が下がるってよ。冬支度はしてるのか? ストーブはあるんだな。灯油は今のうちに買っとけ。何なら配達もしてやるぞ? 有料だけどな」
「え、ああ……そうなのか。でもな、寒くなるにしたってストーブはまだ早くないか?」
「甘いな。この村は
そこで、何故か――――柳が一拍おいて、何かを決めたような間の後に続けた。
「――――
さらりと。そんな、意外な――――全くもって、意外な。
ふだん真面目で愛想なく、冗談は多くてもその手の話題は出さなそうな、イヤミのするような美形のコイツがそんな事を言うのは初めての事だった。
「……何、どうした。黙るなよナナ」
「いや……柳。お前も、そっちの話を振ってくるんだな。珍しい」
「あ、あー……イヤ、そうだな。ああ。俺も、この手のコト言うの初めてだな。……まぁ、悪くない気分だ」
「何かテンション高くないか? 本当に珍しいぞ、お前さ」
「うるせぇな、もうそこ掘っくり返すな。……それで、どうなんだ」
柳の普段見ないバツの悪そうな顔と雰囲気が何ともいえず、おかしい。
まぁ――――俺も、
「そうだな。生足もいいけどさ……冬は冬で、悪くないと思う」
「ひょっとして、何か色気を期待してるのか? ムダだぜ、ナナ。
「え……八塩さんは?」
「あいつはスカートを更に伸ばす。ひどい冷え性だから厚着して皮膚なんてついぞ見えやしねェ。今でさえ顔すら見えないんだぞ」
「ああ……何か分かる気がする。そんなイメージがした」
なんだか、思えば――――こういうそっち系のバカ話をするのは、久しぶりだった。
そういうのに抵抗があった訳ではないのに、爺ちゃんが死んでから今に至るまで、何かを封じていたような気がするし、この村に来てからも色々ありすぎた。
少なくとも今、柳とこうして雑談していると救われた気がしてくる。
そして、多分――――柳もきっと、そうなんだろうなとも思えた。
薄々、分かってきた。
柳が妙に浮かれているというか、
呼ばなければ現れない、女子トイレの怪。七不思議の代表。
唯一封印され、“存在しない事”にされていたあの怪談。
呼べば必ず、誰かを連れて行く――――掛け値なしの厄ネタ。
何かと暴力的なこの村でさえ誰も抗えないはずだった、“あれ”を、俺と咲耶は跳ね除けたのだった。
シャワーの事がその礼だというなら、正直、俺は――――いらない、とも思う。
だって、咲耶を助けたかったのは。咲耶と一緒にいたいと、そう思ったのは――――他ならない、俺の意思だったからだ。
――――思い返していたその時、確かに不意に聴こえた。
不似合に調律された鍵盤を払う、ぽろんっ、という音が。
瞬間、ゆるんでいた空気がピリっと張り詰め、柳は微動だにせず耳をそばだてた。
音の発生は一瞬だったから――――まだ、掴めない。
時にして、数秒後。
高らかにピアノの演奏が始められた。
曲目は“幻想即興曲”。
あの……巧みであればあるほど不安を駆り立てられる、どこか不気味な旋律だ。
その出所は、俺と柳の
上を向けば。
グランドピアノが、天井に――――逆さに生えて、ひとりでに鍵盤を躍らせていた。
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