逆さピアノとゴシックの女天狗
“それ”は、ショパンの幻想即興曲を淀みなく奏でている。
天井に逆さに立つグランドピアノは椅子も引かれ、蓋も開けられ、さながら発表会の舞台のように伸びやかに――――もの哀しく、しかし不気味な曲調をひたすら続ける。
真下で聴くとその低音が皮膚をぞわぞわと揺さぶり、毛穴の開くような、くすぐられるような、おかしな感触だった。
無論、こんなの物理法則がどうだとかいう次元じゃない。
三百キロを超える重量物が、何の支えもなしに廊下の天井に貼り付き、勝手に演奏を続けるなんて、説明できる理屈が存在するわけはない。
だが、
「柳……これって、どういう」
「離れろ!」
ボケっと突っ立って真上のピアノを見上げていると――――その現実離れした光景、その次の瞬間がようやく柳の声で予想できた。
弾かれたように、転がり込むように“逆さのピアノ”の真下から逃れた直後、その大質量は重力に渋々従うように、今まさに俺達の居た場所へ落ちてきた。
本来なら三百キロもの落下物に木造の床は耐えられないはずだが
落下して来れば床が抜けてもおかしくはないのに――――俺は、見た。
このピアノは、床に落ちる直前にほんの一秒ほど減速、停滞し、自由落下の勢いは完全に殺された
「っいっ……て……っクソ、俺ぁサワじゃねぇんだぞ……!」
「大丈夫か!?」
「ああ……ちょいとキツいが、床が抜けなくて何よりってな」
見れば、柳の左手からは血の筋が流れ、床に落ちないようにそれを乱暴に服に押し付けて拭う。
しかし真っ逆さまに落ちてきて未だ止まず、“幻想即興曲”は次の楽章へ入る。
聴けば聴くほど不気味で、それでもどこか入り込んでしまいそうな、優艶な旋律も――――逆さまのピアノが奏でれば、どこか悪趣味な滑稽さに変わってしまうのも気の毒だ。
「“下敷きのピアノ”か?」
「それは……なんだったかな」
「新調されたピアノ搬入の最中、留め具が外れるか何かして下敷きになった業者の噂だよ。そのピアノは一応、色々あってから予定通り納入されはしたんだが……夜毎に勝手に鳴るだとか、夕方まで残って練習してると頭の潰れたピアノ業者の霊が佇んでいるだとかよ」
挟んで向かい側の柳が、まるでひっくり返ってもがく虫のようにそれでもなお演奏を続けるピアノを一瞥し、そう述べた。
そんなような怪談話は、俺もどこかで聞いた事があるが――――どこで、いつか、は到底出てこない。
「実際そんな事件はあったのか? 柳」
「さぁな。だが実在は関係ねぇ。問題は、“その都市伝説ができあがった”事だ。そして信じた奴がいて、信じなくなった。だから――――この村に来たってこったろう。さっさと消すぞ、近所迷惑だ。ご近所の六件の苦情を受け取りやがれ」
言うが早いか、柳はスコップをまるで槍のように振りあげ――――ひっくり返ったピアノの底面へ思いっきり突き刺すと、よく詰まった木材がへし折れる音が、まるで悲鳴のように上がる。
――――それでようやく近所迷惑な大音量の演奏は止まり、いったいいくらするものなのか想像すらつかないグランドピアノの残骸、その破片のひとつひとつに至るまでが、しゅわしゅわと光を発し、消えていった。
「ふと思ったけどさ……こういうのって、実体のある本物のピアノだった時が怖いよな」
「弁償だろうな。おっかねェ。……まぁ言うまでも無くグランドピアノなんて超高い。人間ひとり潰したワケアリ物でも、おいそれと処分もできずに使い回したなんて話があってもおかしくない。案外実話なのかもな」
事故物件や事故車を使い回すのと同じと考えれば有りえなくもない話だ。
しかしともかく、これで一段落……とも行かない気がする。
というのも、夜毎に聴こえると報告されている曲目は、まだいくつかある。
それが全てコイツのせいであれば解決だが――――。
そう甘く考えた直後、柳が左手を曲げ伸ばしし、浮いた血の筋を絞り出すようにしながら口を開く。
「……やれたかは微妙だな。ここからは手分けして一回りしよう。何かあれば無線だ」
「分かった。手、大丈夫か?」
「すぐ治る。何も無きゃ四十分後に玄関で落ち合うぞ」
分かれて、柳は来た道を戻り、俺はそのまま進んで突き当たりの階段を上がる。
一段、一段がどうしても、
そのせいでつんのめりそうになり、爪先を引っかけて倒れそうなほどに低い階段も――――きっと、俺が子供の時ならちょうどよく昇れたはずだ。
手すりはすっかり角のとれたように丸まって、ライトを当てれば黒ずんでいるのが分かる。
踊り場は広く取られており、大きな一枚板の鏡が貼られて落ち着きなく行き来する生徒同士がぶつからないように配慮されていた。
しかし、こんな夜に、こんな村の廃校舎で鏡の中なんて見たくもなくて――――意識せず、俺は足早に階段を昇り切ってしまった。
いくら夜の校舎を歩き回るのが初めてでないと言っても、どうしても……こればかりは仕方がない。
ホラーゲームで化け物が出てきたのなら、倒すか逃げるかすればいいからそう怖くない。
しかし、“出るかもしれない”と気を張ってビクビクしている時の方が怖かったタイプが――――もちろん、俺だ。
いつどこでどう現れるのか分からない、というのは……どうしても、苦手で仕方がない。
足早に階段を昇り切り、少しでも遠ざかろうと無意識に歩いている内、二階の特別教室の並びに出た。
窓の外には夜の闇だけが広がって、照りつける街の
葉のざわめき、揺れる木の影、――――電気を着けていないから、窓ガラスに貼り付く虫さえいないし、それ目当てのヤモリも寄り付かない。
もし俺が今ライトを落っことしてしまえば、もう引き返す事すらできない気がする。
そう考えると心細くなり――――つい、トランシーバーを握り締めた。
そうだ、そういえば柳は今、どこを見ている?
「あ、あー……あー……俺だ、柳。聞こえるか? 今、どこだ?」
横についたゴム製のボタンを押し込みながら語りかけ、数秒待つ。
永遠とはいかないまでも、十分ほどにも感じる時間の後に――――ザザッ、というノイズに続いて声がした。
『……柳だ。今は体育館だ、こちらは異常なし。お前どこだ? どうぞ』
「二階、特別教室の並ぶ廊下だ。こちらも異常なし。やっぱり、あれで終わりなんじゃあないか? 俺は念のため音楽室も確認していくつもりだけどさ。どうぞ」
『ああ、よろしく。……ところでよ、ナナ。お前、音楽の授業は好きだったか?』
「……はぁ?」
『いいか、聞け。勉強、努力でどうにかなる科目とそうじゃない科目がある。学校に出没する怪談、怪物の共通点はそれだ。体育、音楽なんて……どうしようもなく素養に左右される科目なんだよ。恵まれた奴には追い付けない、絶対に』
「……それでも、差は埋まるだろ? 少しぐらい」
『まぁな。だから授業に出て真面目にしてれば成績で4はつく。時には“5”だ。……情けでな。…………』
――――違和感。
今、何か……ノイズでも足音でも、息遣いでもない妙に澄んだ音が混じった。
「柳! 今何かそっちから音がしなかったか!?」
『音、だと? いや、こっちは何も……、……』
ぴこんっ、ぽろんっ。
確かに、今――――澄んだ音が二つ。
「何か変だ。……待って」
口もとから離し、そのまま手を下げ尻ポケットにトランシーバーを押し込む。
それでも、音は確かに聴こえる。
目の前十数メートルから小さく、でも確かにピアノの旋律が。
「こっちが、当たりか。……聴こえるか? やな……ひっ!?」
後方から……ギロチンの刃を落とすような鍵盤を叩きつける音が聴こえた。
振り返ると、かすかに差した月光に照らされるアップライトピアノが、三台。
並んではいない。あべこべ不揃いな間隔で、まるでその場に床から生えたかのように――――ただ散らばった倉庫の風景のように。
数秒のインターバルの後――――三台のピアノが、一斉に……しかし、違う曲目を重奏した。
「う、ぐっ……! 何だ、これ……!」
“革命のエチュード”。“猫ふんじゃった”。“トルコ行進曲”。
曲調も何もかも違う三曲が一斉に、テンポを混じり合わせる事も無く――――自身の他の何をも意に介しないように、陶酔するように始まった。
それが――――また、妙にカンに障り、気分が悪くなるような感覚さえした。
尻ポケットに押し込んだトランシーバーから、柳の声で無線が入る。
しかし、その中にもまた違うピアノ曲が混じっていてとても聴きとれない。
寸前まで俺が見ていた方向からも、更に違う曲が奏でられているのが分かるが、とても聞き分けられるものじゃなかった。
都合、五曲のピアノが混じり合い――――皮膚まで揺らされるような
遠くなりかけた意識を引き戻し、パーカーのポケットの中から引き出したのは、手に収まる大きさの、太刀の柄。
握ればかすかな重さを宿し、
前方に見える三台のピアノを向き、駆け出した直後。
突如として窓ガラスが弾けて砕け、月明りと、俺のかろうじて握り締めるライトの光を粉々の破片が照らした。
そして、同時に小さな黒衣の影が吹き飛んだ窓枠の中に踊る。
底の厚い、高下駄にも似たブーツがピアノの一台を大きく蹴り飛ばし――――廊下の向こうで、それは光の渦を残して消滅した。
そのまま一度も着地する事無く、残る二台目の鍵盤を踏み砕き、その勢いで最後の一台に躍りかかると、両脚を揃えたドロップキックを見舞い砕き――――空中で反転し、着地した。
窓を割った
全体として黒い、暗闇の中ではうすぼんやりとしか見えないゆったりとしたシルエット。
ライトを照らして見ると――――そこには、こんな田舎の村ではとても見ない、いわゆる“ロリータファッション”の女の子が立っていた。
「フフッ……。闇夜を彩る漆黒の天使長、ここに。魔剣の伝承者よ、我が……」
「鈴木さん」
苗字を呼ぶと――――暗闇の中で身を強張らせるのが分かった。
「……ナニヲ申しているのです」
「
「えっ……柳のお
「いいから、もういいから。助かったよ、ありがとう。それじゃ、音楽室の方見て行こう」
「我が話を聞きなさい、伝承者! 待ちなさい!」
真っ黒いゴス服、歩ける事すら不思議な底が厚い、いや高すぎるブーツ、そのくせ、整ってはいてもノーメイクの垢抜けない素顔。
彼女は、
村の米農家の次女で中学二年生。
――――“あれ”の、真っ盛りの。
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