はぐくみの章
自分が愛されてることを
「じゃ、いってきます」
十時過ぎ。さくらは出社するためにアオの部屋を出た。
「いってらっしゃ~い!」
こういう時はよく子供がぐずったりするものという印象があったのに、洸にはまるでそんな様子がなかった。さくらがいなくなった途端に狼の姿になっても、元気よくリビングを走り回り、フローリングの床で滑ってすっころんでもむしろ楽しそうにはしゃいでいた。
ミハエルが言う。
「自分が愛されてることを疑ってないからだよ。待ってれば必ず帰ってきてくれるって信じられるからさ」
「そうなんだ…?」
「うん。さくらがしっかりと、洸にそれが伝わるように接しているからだね。しかも、それはアオもだよ」
「私も…?」
「もちろん。アオが洸をちゃんと愛してて、その気持ちが洸に伝わるように接してるから、さくらがいない間も不安なく過ごせるんだ」
「そうか。そう思ってもらえてるなら嬉しいな」
「せっかく家族になったんだから、お互いにそう思えるようになりたいよね」
「うん……分かる。今ならそれがすごく分かる……
だけど、あの人達はこういう幸せを、わざわざ自分から捨てたんだな……」
「アオのご家族のこと……?」
「…幸せは人それぞれだっていうのは分かってる。あの人達はあの人達なりの幸せを求めてるんだろうなっていうのは分かってるんだ……だけどさ、ちっとも幸せそうに見えないんだよ。いっつも誰かに対して腹を立てて、見下して、罵って……
もしあれが<幸せ>っていうものだったら、私は幸せなんて要らない。不幸でいい……」
「アオ……」
地位や名声、財産を得るためには努力をしているのであろう両親や兄を思い、アオは、彼らの求めているものこそが幸せだというのであればそんなものは要らないと言い切った。それはアオの素直な気持ちだった。
彼女にとっては、こうしてミハエルと一緒に穏やかに暮らせて、さくらと一緒に仕事をして、洸の成長を見守ることができるのであればそれでよかった。今以上の地位も名声も財産も必要とは思えなかった。
そんなアオの頬を、狼の姿をした洸がぺろりと舐める。彼女が辛そうな様子になっていることに気付いて、慰めようとしてくれているのがアオにも分かった。
「洸……あんたは優しいね。でもそれはあんた自身が愛されてるからそんな風にできるんだね……
自分の存在が認められて受け入れられてるっていう実感がどれほど大切か、すごく分かるよ……」
ペロペロと顔を舐めてくる洸を抱き締めアオは言った。
そんな彼女を見て、ミハエルはまた言う。
「エリカもきっと、とても愛されていたんだろうね……」
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