隠し事

 仕事のことで訊きたいことがあったので、杏奈先輩のところへ行った。

「杏奈せんぱ……」

 言いかけてやめた。先輩は誰かと話し中だった。よく見ると、話している相手は社長だった。

 な、なんで、社長が……杏奈先輩と?

 俺は、ちょっと気になった。だから、コッソリと聞き耳を立てた。盗み聞きじゃない。聞き耳を立てただけだ。観葉植物の陰から、ふたりのようすを眺めた。

「杏奈くん、ぜひ頼むよ」

 社長は、やけに上機嫌なようすだ。けれど、杏奈先輩の表情は浮かない。

「……でも、」

 戸惑うように、曖昧な言葉で濁している。

 頼むって……なんの話だ?

 社長は、ニコニコと話をつづける。

「息子が杏奈くんを紹介してほしいと言ってるんだよ。杏奈くんは美人だから、一目惚れしたんだろう」

「え、ぁ、……」

「一度だけでも、会ってもらえないだろうか。お見合いといっても、かしこまった形じゃないんだ」

「社長……でも、私、」

「もしかして、恋人がいるのかね?」

「そ、そういうわけではないですけど」

「じゃあ、問題ないね。頼んだよ」

「ぁ……」

 去っていく社長。

 紹介したい? 一目惚れ? ……お見合い? なんだよ……それ。

 俺は、立ち尽くしたまま動かない杏奈先輩にそっと近づいた。そして、その背中に声をかけた。

「杏奈先輩」

 ハッとしたように、先輩が振り向く。先輩の顔はこわばっていた。

「あ、浩太くん」

 俺は、単刀直入に訊いた。

「お見合いっすか?」

「聞いてたの?」

「すみません。聞いてたっす」

「正直だね」

「すみません」

 俺は、悪びれることもなく謝った。杏奈先輩は笑った。けれど、俺は笑えなかった。

 今はそれどころじゃねぇんだよ。

 もう一度念を押した。

「先輩、お見合い頼まれたんすか?」

 そんな俺を見て、先輩は苦笑した。

「……ぁ、うん。なんか……社長の息子さんが会って話したいって……向こうだって、私のことほとんど知らないのに……笑っちゃうよね」

「どうするつもりなんですか?」

「うーん……確かに今付き合ってる人はいないからなぁ」

「だめっすよ!」

「え?」

「杏奈先輩には、」

 ユウさんっていう恋人がいるじゃないっすか、と言いかけてやめた。

 ……いや、言えない。言ったら……また、パニックにーー。


 目覚めてすぐの杏奈先輩は、人が変わったようだった。突然現れるパニック症状。頭を抱えて、叫び散らかす。

 周りにあるものを、ひっくり返してベッドの上でのたうち回った。俺は必死で、先輩を落ち着かせようとした。

「痛い……っ、うぅ、頭が痛い……ッ、誰かが……私の頭を……ァ、……振り返って……アァ」

「杏奈先輩っ! 落ち着いてっ!!」

「そしたら、……だれかが、……だれ、……かが……ねぇ、私、……しら、なぃ……こ、わぃ……の…………ァァァ」

「先輩ッッ!!」

「ね、ぇ……浩太くん……ユウって……だれ?」

 看護師と先生がやってきて羽交い締めにし、鎮静剤を投与すると眠りにつく。こわい、と杏奈先輩は泣いていた。あの病室で、泣いていた。杏奈先輩が壊れるところは、もう見たくない。


 ーー言えない。杏奈先輩には、ユウさんという恋人がいるなんて……。

「ッ……」

 俺は、グッと手を握りしめる。なにも言えないでいると、杏奈先輩がクスリと笑った。

「浩太くん、なんでそんなに心配そうな顔してるの? もしかして、私のこと好きなの?」

「そうじゃなくて!」

「即答だね」

「ぁ、いや……違うんです……そうじゃ……なくて」

「あはは、わかってるよ。私、そろそろ仕事に戻るね。お見合いの件はすこし考えてみるよ。じゃ」

「ぁ、先輩……」

 杏奈先輩は背中を向けると、行ってしまった。

 ……どんすんのかな。……社長の息子……だもんな。断りにくい、よな……。やっぱり……お見合い、すんのかな。

 俺は肩を落とすと、はぁと大きな息を吐き出した。

 その日、ジムへ行くとユウさんに会った。俺は、普通を装って、声をかけた。

「ユウさん、お疲れさまです」

「あ、浩太。お疲れー」

「今から練習試合っすか?」

「うん。美咲さんと。相手しろってうるさくて……あの人すぐ頭に血がのぼるんだから。こないだちょっとからかっただけなのに」

「そ、そうっすか……」

 ユウさんは最近、毎日のようにここへ来ている。家に帰るよりは、ここにいるほうが気がまぎれる、とユウさんは言っていた。確かに誰も帰ってこない家にいても、虚しいだけかもしれない。

 俺は、ひと通りの自主練メニューをこなしていった。けれど、頭の中は、杏奈先輩のお見合いのことでいっぱいだった。もし、仮にお見合いをして、婚約なんてことになったらユウさんはどうなるのだろう。

 自分の恋人が、ほかの男にとられたら……ユウさんはーー。

 知らない男に笑いかける杏奈先輩。ひとり立ちすくむユウさんのうしろ姿が浮かぶ。悲しげに、それでも、なにもできない。

 杏奈先輩は、ユウさんのことを忘れたまま、新しい人生をーーユウさんと別々の道をーー。

 取り残されたユウさんは、ただ黙って彼女の幸せを祈る。自分だけ、過去のしがらみに縛られたまま。

 …………なんて……悲しすぎるんだ。

 胸が痛くなった。言えない。お見合いのことなんて、とても言えるわけない。

「……ユウさんには黙っておこう」

「なにを黙っておくの?」

「なぁぁぁぁ!!!!」

「浩太。そんなに驚いていったいどうしたのかなぁ」

「は……ぁ、いや、な、ななな、なんでも、ないです」

「なにもないわけないよね?」

「な、な、ないっす! ほんとに、なにも、」

「言わないと殺すよ」

「ひぃ」

 目が笑っていないときの、ユウさんの笑顔。

 こええぇ……。そんな顔で見ないで頼むから。

「ていうかさ、最初から気づいてたよ。浩太がなにか隠し事してるの」

「どんだけ、勘が鋭いんすか……」

「浩太が鈍いだけじゃない?」

 ユウさんまじ、すげぇよぉ……。俺、結構ふつうにしてたつもりなのに……。


 というわけで。

 つまり、なんというか、……言うしかなかった。

 お見合いの話をした。ユウさんはなにも言わず帰った。立ち尽くしていると、美咲さんから声をかけられた。

「あいつ、なにかあったのか?」

「いや……じつは」

 俺は、事情を説明した。美咲さんは、なにも言わなかった。ただ、視線をおとし、なにか考えていた。

 いつもはユウさんと喧嘩ばかりしている美咲さん。杏奈先輩がユウさんの記憶を失ったとき、一番悲しんだのはほかでもない。美咲さんだった。

 すこしの沈黙。

「浩太」

 美咲さんが口をひらいた。

「はい」

 俺は、ゆっくりとそのほうを見た。

 言葉にできないような表情の美咲さん。悲しんでいるような、怒っているような、そのどちらでもないような顔をしている。もしかしたら、俺も同じ顔をしているのかもしれない。

 美咲さんが呟くように言った。

「俺たちは……なにもできねぇ。けど……やっぱり……あまりにもユウが可哀想だ」

「……そうっすね」

 ほんとうにそう思った。ここ最近、杏奈先輩とユウさんは頻繁に連絡を取り合っていた。

 二週間前、ジムに遊びにきたことがきっかけで、ふたりの距離が縮まったようだった。

 もしかしたら、このままうまくいくんじゃないか。そんな矢先のことだった。

 なのに、なんでこんなうまくいかねぇんだよ。俺……幸せそうなふたりの顔眺めるのが好きだったのにな……。

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