軌跡


 杏奈が家へ来た。来てくれないかもしれない、と思っていたので、インターホンの音を聞いたとき、胸を撫でおろした。

 先週、

『よかったら、家にコーヒーを飲みにこない?』

 勇気を出して言って、ほんとうによかった。

「おじゃまします」

 そう言って、杏奈は僕の家に足を踏み入れた。彼女が、僕に家に来たのは事故以来。つまり三ヶ月半ぶりだった。彼女が僕の家にいる。それが、たまらなく嬉しかった。

 僕は、キッチンに立った。久しぶりに、ふたりぶんのコーヒーを淹れた。おいしい、と言ってくれるだろうか。

 期待とすこしの不安を抱きながら、彼女のもとへ行った。杏奈は、ソファーへうつ伏せになっていた。一体どうしたことだろう。しかも、なにやら独り言を言っている。

「ぁ、……いぃ、……すごく………いぃ」

 なにがいいのか、さっぱりわからない。

「杏奈ちゃん?」

 呼びかけてみた。彼女は僕を見て、気まずそうに起き上がった。

「ごめんなさい。つい」

「ついって……眠かったの?」

「いえ、そう言うわけじゃないんですけど。なんとなく横になりたくなってしまって。ごめんなさい」

「あはは、なにそれ」

 彼女は恥ずかしそうにしていた。横になっていた理由はわからないけど、可愛い反応が見れたので気にしないことにした。

 彼女は、コーヒーを美味しいと言ってくれた。それに、懐かしい味がするとも。彼女の中にある味覚は、僕を記憶しているのかもしれない。

 それから、彼女は、僕の両親をことを訊いてきた。僕は、ありのままの事実を伝えた。記憶を失う前、杏奈は僕の生い立ちや家族のことを訊いてこなかった。訊かなかったのではなくて、訊けなかったのだろう。

 記憶を失う前、杏奈は言った。

「過去なんて、重要じゃないよ。今があればそれでいい」

 たぶん、彼女なりの気づかいだったのだろう。彼女はなんとなく気づいていたのかもしれない。僕に身内と呼べる人間がいないことを。だから、こんな形で僕のことを杏奈に知ってもらうことができてよかった。

 僕は、彼女がそばで笑っていてくれるだけで幸せだった。たとえ、記憶を失っていても。

 おかわりの意向を確認したあと、僕は席を立った。彼女も、すぐに立ち上がった。

「岡田さん、お手洗い借りてもいいですか?」

「うん。つきたあたりを右にいって、それから」

「だいじょうぶです。知ってます」

 意味がわからなかった。

「え?」

「え……ぁ、れ? わ、私、何言ってるんだろう。あはは、ごめんなさい」

 彼女は、かけるようにして部屋を出ていった。そのあと、しばらく経っても戻ってこなかった。

 心配になって、僕は様子を見にいった。彼女は、地下室にいた。僕が彼女を監禁していたあの部屋で、なにをするわけでもなく立ち尽くしていた。

「杏奈ちゃん?」

 声をかけると、彼女がハッとして身震いした。

「あ……」

「どうしたの?」

「え、ぁ、いや……」

 それから彼女は自分のことを、変だと、なぜだかわからないけれど、この家を知っている気がする、と言った。彼女は、困惑していた。僕は、なにも言えなかった。

 そのあと、僕たちはリビングで二杯目のコーヒーを飲んだ。けれど、杏奈はあまり話さなかった。ぼんやりと家の中を眺めたり、時おり空になったコーヒーカップをジッと見つめたりしていた。

 棚のマグカップにも目を止めていた。以前、デートをしたときに杏奈が買ってくれたペアのマグカップ。今日、敢えて使わなかったのに、彼女は気づいた。かつて僕たちの思い出に触れ、自分に問いかけているように思えた。潤んだ瞳が可愛くて、そして、可哀想だった。

 帰り際、僕は、たまらず彼女を抱き寄せた。触れないようにしていたのに、だめだった。

「岡田さん?」

 彼女が僕の名前をつぶやく。

「ごめん」

 僕は、そう言って彼女から離れた。どうしようもなく、杏奈が愛おしかった。

 彼女がお見合いするらしい、と聞いたのは、それから、二週間後のことだった。

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