悔い

 昏睡状態から杏奈が目覚めた。涙ぐむ僕に、彼女は言った。

「あなた、ダレ?」

 冗談かと思った。そうじゃないとしてもすぐに思い出すだろう、と思った。

 僕は、自分のことを説明した。僕が杏奈の恋人であること、結婚の約束もしたこと。今の状況を事細かに教えた。

 結果、彼女はパニックを起こした。

 彼女の記憶から、僕は消えていた。すべての記憶を失ったわけではない。自分のこともわかるし、まわりの状況も把握していた。

 職場の人間も、友人も、同じジムに通う浩太でさえもーー。ただ、僕という存在だけが、きれいに切り取られていた。

 医者から呼ばれて、ふたりきりで話した。苦虫を噛み潰したような顔を、医者はずっと浮かべていた。

「極めて珍しいケースの記憶喪失です。恋人のことだけを、忘れてしまうなんて。トラウマになるような出来事があったり……そんな心当たりはありませんか?」

 僕は、よくわからない、と答えた。

「自然と失った記憶を思い出すこともあるかもしれません。ですが」

 そして、医者はつづけた。

「二度と、あなたのことを思い出さないかもしれません」

 杏奈が目覚めてから、僕は面会を禁じられた。僕の顔を見て、彼女がふたたびパニックを起こさないようにするためだ。彼女にとって、僕は他人だった。

 そんな人物から、自分が恋人でさらに婚約者だと言われたのだ。混乱しないはずがなかった。

 だから、彼女が落ち着きを取り戻すまで、姿を見せないように、と医者から強く言われた。それでも僕は、毎日病院へ行った。もちろん、病棟へは行かなかった。エントランスホールの待合室で、浩太が戻ってくるのをただじっと待った。

 僕は、浩太に毎日面会へ行ってもらうようお願いした。そして、杏奈がどんな状態なのか毎回、報告してもらった。

 初めの三日間は、眠ったり起きたりの繰り返しだったらしい。起きているときも、ぼうっとしてほとんど言葉を発さず、外ばかり眺めていたという。ときおり急にパニック症状があらわれ、そのたび鎮静剤を投与されたらしい。

 二週間後、ようやく彼女と面会をする許可がおりた。間違っても、僕が恋人であったことは言わないように。医者から何度も念を押された。

 二週間ぶりの、彼女は元気そうだった。浩太の知り合いとして、杏奈に会いにいった僕を笑顔で迎えてくれた。

 僕は、心からホッとした。安堵して肩を落とす僕に、彼女が微笑む。

「あ、目が覚めたとき、そばにいてくれた方ですよね。名前ちゃんと覚えてますよ」

 彼女は、僕の名前を述べた。そうです、と言うと杏奈はさらに笑顔になった。

「改めて初めまして。浩太くんから聞いてます。ジムの先輩ですよね?」

 そして、よろしくお願いします、と言って手を差し伸べた。

「……よろしく」

 僕は、その手を取った。

 彼女は、僕が話したことをすべて忘れていた。目覚めた日、僕が与えた事柄すべて、まるでなかったことのように白紙に戻していた。

 そもそも自分がパニックを起こしたことすらも、覚えていなかった。目覚めたときにいたのは、僕だった。それだけ、唯一覚えていた。

 それでいいと思った。平静ではいられないほどのトラウマを、僕は刻み込んでしまった。ならば、忘れてくれるほうがいい。たとえ、僕のことを思い出さなくても、きみが笑っていられるならそれでいい。

 僕は浩太の知り合いとして、杏奈を見守ることにした。不用意に近づかなかった。たとえ、どんなに触れたいという衝動に駆られても。

 いまさらこんなこと言っても遅い。それでも、考えてしまう。あのとき、引き止めていれば、無理にでも、連れて帰っていればもっと違う未来になっていたかもしれないとーー。

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