非日常ー2

 私は岡田さんにジムの中を案内してもらった。ジムの中は、とても広かった。たくさんの生徒がいて様々なトレーニングをしていた。

 ここは、プロも所属するほど有名なジムだった。一通り見て回ったあと、私はベンチに腰かけた。

「はい」

 岡田さんが差し出した飲み物を受け取る。

「……ありがとうございます」

 私の好きなつぶつぶオレンジだった。


 二週間ぶりに目覚めたとき、そばにいたのは岡田さんだった。彼は泣いていた。まるで自分のことのように私の目覚めを喜んでくれた。

 岡田さんにとって、私は浩太くんの職場の先輩なだけなのに、それは親身になって世話をしてくれた。彼はとてもいい人だ。

 艶のある自然な茶色い髪。切れ長の二重まぶた。整った顔立ち。そして、真っ直ぐな青い瞳ーー。

 なんていうか……タイプかもしれない。

「杏奈ちゃん。顔赤いよ?」

 顔を覗き込まれた。

「ふぁっ」

 変な声が出た。

「ふあ?」

「ぁ、い、いや、な、なんでもないです」

 慌てて視線をそらした。


 帰りぎわ岡田さんに呼び止められた。

「送るよ。最近車、買ったんだ」

「え、でも……」

「遠慮しないで」

 優しく語りかけるような声。私は、岡田さんの言葉に甘えることにした。

 駐車場で私は唖然とした。

 黒い四輪駆動のメルセデス・ベンツ……? は?

「え、この車……岡田さんのですか?」

「そうだけど、なに?」

「えぇ」

「どうしたの?」

「あ、いや、なんていうか……」

「うん」

「岡田さんってお金持ちなんだ」

「さらりと言うね」

「すみません」

「いや、いいけど。あと、お金持ちじゃないからね」

「へぇ…………またまたぁ」

「どっちなの?」

 私たちは、車の中でいろんな話をした。仕事のこと、趣味のこと、岡田さんは私の話を聞いてくれた。楽しかった。私は、コーヒーが好きだと言った。すると岡田さんが提案した。

「あ、ねぇ。今度よかったら家来ない? エスプレッソマシンあるから、淹れてあげる」

「ほんとですか? 嬉しいです」

 喜んでその提案に乗った。エスプレッソマシンで淹れたコーヒーが美味しいことを、私は知っていた。どこでその味を知ったのか忘れた。けれど、とにかく知っていた。岡田さんの家へお邪魔するのは初めてだ。ちょっと楽しみだった。


 夢の中で私は泣いていた。

 二週間という眠りから目覚めるまで、私は夢を見ていた。

 黒い海の底でただよう私。何も見えない。真っ暗な暗闇の中を、私はただ浮遊していた。時々、だれかが呼ぶ声がした。

 けれど、それはごく微かで、よく聞き取れない。耳を澄ましてみるけれど、その時には声は止んでいる。

 私は、ただボンヤリとしていた。意識はあるけれど、だからと言ってなにかを考えようとはしなかった。

 ここがどこなのか、夢の中のどこにいるのか、果たしてほんとうに夢の中なのか、そう言った疑問に思うべきもろもろの事柄はたくさんあったのに、なにも感じなかった。

 長い間私は夢を見ていたけれど、決して心地よくはなかった。かといって、苦痛でもなかった。不安でもなかった。

 まるで、感情をまるごと抜き取られたように、意識がそこにあるだけだった。

 黒い海の底は、どこまでいっても闇がつづいていた。私は、流されるまま流れつづけた。いや、そもそも流れていなかったかもしれない。私は、長い間そうしていた。

 このまま、消えてなくなるかもしれない。それでも、いいと思っていた。

 けれど、あるとき急に苦しくなった。身体をぎゅうぎゅうと締めつけられたような感覚がした。わけがわからなくて、顔をしかめた。

 すると、今度は頬に冷たいものが触れた。目の前にはなにもない。こわい、と思った。初めて、ここから抜け出したい、と思った。私は真っ暗な暗闇に手を伸ばした。

 ……助けて。

 心の中で叫んだ。

 ーーだれかが、私の手を掴んだ。

「おかえり」

 穏やかな声とともに目覚めた。そばにいたのは、知らない男の人だった。うす暗い部屋の中、彼は私の手を握りしめていた。藍色の瞳からこぼれ落ちていく涙。それは、私の頬を濡らしていた。

「だれ……?」

 私は訊いた。ピクリと彼の肩が揺れた。しばらく経ってから、彼の口が動いた。

「僕は…………岡田ユウ」

 泣いているような顔で笑った。その表情が今でもまぶたの裏に焼きついている。

 目覚めてからも岡田さんは頻繁にお見舞いにきてくれた。退院してからも、頻繁に連絡をくれた。彼はとてもいい人だ。

 とても……いい人ーー

 退院して一ヶ月半。あたりまえの日常がつづいている……ような気がする。

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