非日常ー1

 お昼休み、浩太くんからジムに遊びおいでと誘われた。

「え、突然なに?」

 そう言うと、浩太くんはちょっと慌てたような顔をした。

「え、ぁ、いや……ほら、……スポーツって見てるだけも、楽しいだろ? 気晴らしにもなるし……と、友だちもできるよ。杏奈先輩……入院長かったから気分転換にも……」

「うーん、そうだけど」

 結局、明日浩太くんの通っているジムに行くことになった。

 行ったからといって、なにもないのになぁ。

 アパートへ帰ると、一人分のご飯を作って食べた。それから、お風呂を済ませるとテレビ鑑賞。時計の短い針が十一の数字をさしたころ、ベッドへ潜り込んだ。

 ひとりはあたりまえ。なのに熱が恋しいと思ったりする。もうずっと恋人はいない。

 変な気持ちだ。自分がときどきわからなくなる。なにか忘れているような気がする。けれど、思い出せない。

 まわりの人はなにも言わない。忘れているとも、思い出せとも、言わない。

 だから、実際は、なにも忘れてなどいないのかもしれない。私の思い違いなのかもしれない。それなら、それでいい。けれど、時々無性に悲しくなる。意味もなく泣けてくるときがある。

 そんなとき、私はあの指輪を見る。すると、どうしたわけかすこし気持ちが落ち着く。よくわからないけれど、とにかくホッとする。

 指輪の存在に気づいたとき、どきりとした。こんな高価なものを買った覚えはなかった。指輪には、なにも刻印されていない。怖かった。だから、一度も身につけたことはなかった。

 通り魔に襲われて、私は二カ月間入院した。幸い後遺症もなく、日常生活にもどれた。

 退院して一カ月経った。特別、変わりはない。あるとすれば時々物忘れをすることと、真っ黒な闇で覆われた残像がふいによぎること。それだけだ。

 仕事にも復帰したし、職場の人たちもとても優しい。毎日の日々に満足している。それでも、気になることがある。

 この家にいても、なんとなく違和感を感じる。自分の家なのに、どこか落ち着かない。一ヶ月経った今でもそうだ。身体がどこか別の場所を求めているような、そんな感じがする。あまり、気にしないほうがいいのかもしれないーー。

 夢の中で笑いかけるあなたは、ダレ?


 翌日、浩太くんに連れられてジムへ行った。ちょうど岡田さんが試合をしているところだった。リングのまわりに人だかりができている中、私もこっそりとのぞいた。

 視界に入った岡田さんの姿。すでに試合の終盤だというのに、息ひとつ切らしていない。張り詰めた空気のなか、彼は笑っていた。

「美咲さん、ひどいですよ。急に投げ飛ばすなんて。いたた…」

「ユウ。おまえが手を抜くからだろうがっ。だれが手加減しろっつったんだよ」

 怒鳴るように声を上げる人物。美咲さんと呼ばれる彼の身体は、岡田さんよりも一回り大きい。ガタイといい、雰囲気といいすごく強そうだ。

「あはは、本気出して良いんですか? どうなっても知りませんよ?」

 けれど、当の本人はというとあっけらかんとしている。なぜ、そんなに余裕があるのだろうと不思議に思った。

「ほざけ。さっさとカタをつけてやる」

「あぁ、そう。なら、……遠慮なくーー」

 言い終える前に、彼は飛んでいた。空中で身体を捻る。そして、クルリと身体を反らすと、回し蹴りをした。空気が弾けるような激しい音が響く。腕で受け止める美咲さん。

「相変わらず、おまえの蹴りは重てえな」

「まだ、これからですよ」

「は?」

 クッと岡田さんの口もとが緩む。彼は、蹴り上げた足に力を込めた。そして、思いきり踏み込むと、美咲さんに膝蹴りをした。

 圧倒された。なんて素早い身のこなしだろう。素人の私でも、無駄な動きが一切ないと分かるほど、彼の動きは美しかった。

 けれど、美咲さんも負けていない。

「だ、か、ら、手加減すんなっつったろうがっ」

 膝蹴りをひたいで受け止めた美咲さんは、岡田さんの足を掴んだ。

「わっ」

 バランスを崩した岡田さん。その隙をつかれ、思いきり床に叩きつけられた。そこで、試合は終わった。頭を押さえながら、岡田さんはゆっくりと起き上がる。

「いったぁ……美咲さん。ひどいな。しかも、今、目を狙ったでしょう。おかげで受け身取れなかったじゃないですか」

「ひどいもクソもあるか。おまえだって、金的攻撃しようとしやがって」

「あ、バレました?」

「馬鹿野郎」

 なにやら楽しそうだ。さっきまでの張り詰めた空気はなくなっていた。

 あ、意外と仲良いんだ。

 ちょっと安心した。

「杏奈先輩、どうでした?」

 浩太くんから声をかけられた。

「あ、うん。すごく新鮮だったよ」

「ユウさんと、美咲さんの試合なんて滅多に見れないから貴重でしたよ。美咲さんの打撃って体重があるからすごい威力なんですけど、それをユウさんはあっさりかわすんですよね」

「へぇ、そうなんだ」

「あれで、ふたりとも遊び半分でやってるんだからなぁ。信じられないっすよ」

 ……遊びなんだ。こんだけ注目浴びてて遊びって……なにそれ。

 思わず笑ってしまった。

「杏奈ちゃん」

 岡田さんの声がした。

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