分岐点ー1
某大学病院。
建物の入り口部にある広大なエントランスホール。あたりを見渡していると、遠くから声が聞こえた。
「杏奈」
背中で受け、私は振り返る。彼は車椅子のひじ掛けから手を離すと、手のひらを私に見せた。
グレーの病衣に身を包むユウ。あっちへ行こう、というように彼が外を指差す。私は笑みを滲ませると、そのほうへ踏み出した。
気持ちのいい風がそよぐ穏やかな日だった。ユウは外の空気が吸いたいからと、病院内にある広大な芝生広場へ行った。
ベンチに腰かける。彼はすぐ隣で車椅子にもたれかかるようにして、空を見上げていた。
伸びてしまった髪をはやく切りたい。そう言うあなたの耳にかかる髪は、風になびいてとてもきれいだった。
あの日の夜。救急車に乗せられると、ユウはそのまま入院した。あなたは、平気だと言った。けれど、そうじゃないとあとから知った。
三箇所の肋骨骨折。重度の脱水。中等度の栄養失調。そして、足に負った三十針縫うほどの深い傷。
男と対峙した夜。実はあのとき、サバイバルナイフがかすっていた。ユウは救急車が来るまで、私に隠していた。
「……ッ、ユ……っ、」
血だらけの足を見て、言葉を失う私。自分の腕の骨が折れていることを忘れるくらいに驚いた。
「ちょっとかすっただけだってば。そんな泣きそうな顔しないでよ」
そんな私に対して、ユウは笑った。目を細めて、ケラケラと。
あとから先生が、教えてくれた。もう少し傷が深かったら神経に達していたと。
私の骨折は、ギプスにより四週間の固定を必要としたものの、日常生活を送る上ではさほど支障はなかった。ユウのほうがずっと重症だ。
車椅子での入院生活。退院までは、まだながい。
穏やかな雲がゆらゆらと流れていく。太陽が雲に隠れたり、かと思えば顔を出したり忙しそうだった。
私は移り変わる音色に似た風の音や、心地よく耳に届く行き交う人々の話し声に耳を傾けた。
ーー桜子のこと。結論から言うと、彼女は妊娠していなかった。それを聞いたとき、ユウは肩の力を抜いた。
「本当に……よかった」
そう言って涙を流した。
その日をさかいに、ユウの目の下からクマは消えた。ずっとそのことが気になっていたに違いない。ユウは一度もそんなこと言わなかったけど。
これはあとからわかったこと。桜子は子どもができない身体だった。若い頃に繰り返した中絶。桜子は、血の繋がらない父親から暴行を受けていた。
可哀想な彼女。今さらこんなことを言っても無意味だけれど、私は気づいていた。桜子の目のおくに迷いがあったこと。
彼女は言った。操り人形のようになっても、ユウはユウだと。けれど、本心ではないように思えた。
本当は後悔していたのではないだろうか。監禁したこと。それは過ちだったと途中で気づいたのではないだろうか。
実際のところはわからない。
けれど、これだけは言える。あの夜、ユウを見つめる桜子の視線は、純粋に恋をする女の子だった。
ユウは多くのことを語ろうとしない。警察には、訊かれたことを話しただろう。けれど、私にはあまり言わなかった。
それでいい。私も訊かなかった。
穏やかな、ほんとうに穏やかな日常。こんなふうにユウと並んで、ただ時間の流れるままに受け止める。
それをずっと望んでいた。私は決して欲張ったりはしない。
ただ平穏でありたかった。あなたという光を、そばで感じていたかった。そうでありたいと、強く願った。
だから、私はユウに切り出した。五日前のことだ。
「落ち着いたら、ユウといっしょに住みたい。アパートは引き払おうと思う」
喜んでくれると思った。すぐにオッケーしてくれると思った。ちがった。
ユウはしばらく私を見つめたあと、視線を落とした。
「ちょっと考えさせて」
影のかかる美しい輪郭。彼からの返事はまだ、ない。
愛とはなんだろう。そんなことを考える。ユウにとって、愛することとはなんだろう、と。
束縛? それとも、駆け引き?
私はユウのことが、ときどきわからなくなる。それでも、問い詰めたりしない。そんな女々しいことはしない。
あなたの口からどんな言葉が飛び出すか。なによりそれが怖かった。
ユウが入院している間、私は自分のアパートへ帰った。ひとりの空間。必然的に考える時間が増えた。
いつかユウのほうから離れていくときが来るかもしれない。大切なものが消えて無くなる恐怖。
この五日間、私はそんな日が来てもいいように、すこしずつ心がまえをすることにした。
ユウという存在が私からなくなっても、それが当たり前の日常だと思えるように、ちゃんと耐えていけるようにーー。
覚悟しなければならない、と思った。
いつかくるかもしれない別れのために。
いつかくるかもしれない悲しみのために。
だいじょうぶ。どんな未来でも受け止められる。
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