想起
あぁ、あのころが懐かしい。これは、事件が起きるすこし前の話。休日、いつものようにユウの家へ泊まり、朝ごはんを食べているときに切り出した。
「今日映画、観にいかない?」
「映画?」
「う、うん。なんでもいいから観たい」
私なりの勇気を出した。これまで、デートらしいことができていない。最近とくにユウが仕事で忙しいという理由もあった。
食事に行くくらいはしたけれど、丸一日時間が取れることは珍しい。
私の提案にユウはコーヒーを飲む手を止めた。少しの間考えるような表情をしたのち、曇りなく笑った。
「そうだよね。こんなにゆっくりできることなかなかないもんね」
「でしょ? せっかくならどこか行こうよ」
「いいよ。じゃあ、行こう」
「うんっ」
朝食を終えると、さっそく支度に取り掛かった。
いつもよりおめかし。香水もほんのり付けてみる。最近では、ほとんど自分のアパートに帰らないため、半分以上の服をユウの家に置いている。
お気に入りの青いワンピースを持ってきておいて正解だった。最後にパールのネックレスを付け、リビングへ戻った。
「ユウ。準備できたよ」
「うん。ぁ……」
「なに?」
「……いや、なんでもない」
「?」
ユウはなにか言いかけてやめた。
……なに?もしかして……へんかな。
ちょっと不安だったけど、問い詰めなかった。映画館のある場所までは電車で行った。
「え、タクシー使わないの?」
彼はそう言ったけれど断った。
「ユウと電車乗ったことないし、それにさ、デートっぽいでしょ」
「ぽいってなにそれ」
「いいのいいの」
ユウとの初めてを色々経験したかった。それが大切な思い出になるからだ。
電車は満員だった。もちろん座席は空いていない。ユウは私を端に立たせると、押しつぶされないよう気遣ってくれた。幸せな気持ちになった。
「ヒール の高い靴だから辛くない?」
「平気だよ」
「痛くなったらすぐに言ってね。抱っこしてあげる」
「なにそれ、ふふ。ありがと」
冗談なのか本気なのか、どちらにしてもおかしい。クスクスと笑った。
「杏奈。香水の匂いがする」
「ぁ、うん。たまには……と思って。い、いやだった?」
「ううん。すごくいい匂い」
ユウが僅かに微笑む。ドギマギした。
……あれ、いつもいっしょにいるのに、なんか……緊張するな。
ユウが私服だから?
いつものスーツとは違い、アニエス・ベーの白いTシャツに黒いズボン。トップスもボトムスも細いシルエットで、細身体型のユウにすごく似合っていた。
ユウはセンスがいい。改めてそう思った。
電車がときおり揺れる。その度に、ユウは私がフラつかないように支えてくれた。
彼の優しさに胸がぎゅうっと締めつけられた。電車を降りて、しばらく歩いたあと映画館に着いた。
「どれ観る?」
「杏奈が観たいのでいいよ」
「えー、何でもかんでも私に合わせなくていいってば」
「合わせたいんだよ」
「でも……」
「杏奈が選んだのを、僕も観たい」
ユウはほんとうに優しい。私は、話題になっているヒューマンドラマ映画を選んだ。
もちろんユウも賛成してくれた。映画は一見普通に見えるも親の暴力に苦しむ少年が主人公の話だった。
ヒロイン役は障害のある少女。ふたりはそれぞれの苦悩を抱えながらも、お互い支えあい前向きに生きていく。
切なかったけれど、とてもいいストーリーだった。なによりハッピーエンドでよかった。
映画館から出て、歩きながら声をかけた。
「ユウ、面白かったね」
「うん。心に響いた」
そう言って口もとを緩めるユウ。少し悲しそうな目をしていた気がした。
映画を観たあとは、駅前の商店街でウィンドーショッピング。かわいい雑貨屋さんがあったから、ユウと入ってあれこれ手にとって選んだ。
結局、お揃いのマグカップを買うことにした。私が白でユウが淡いブルー。シンプルだけど、形が気に入った。ふたつ手に持ち、レジに行こうとする私をユウが制した。
「あ、僕が払うよ」
「ここは私が出すから」
「え、いいよ」
「私が買いたいだもん」
食事に出かけた際、かならずユウがお金を払ってくれる。今日の映画館でもそうだった。出そうとした時には、もう支払いを済ませていた。
彼が確認するように問いただす。
「ほんとうにいいの?」
「たまには私も出さないと。甘えてばかりいるのもいやなの。それに、自分の買ったものがユウの家にあるってことも、なんだか嬉しいから」
それを聞いて ユウがふきだした。
「杏奈、そんなこと気にしてたんだ」
「あたりまえだよ。だって、食事代とか全然払ってないのに」
「だから、気にしなくていいのに。……わかった。じゃあ、今回は杏奈に買ってもらおうかな」
ユウの屈託のない笑顔。私を魅了して止まない。
……あぁ、私……ユウが好きだなぁ。
それから、駅に向かって、ふたり並んで歩いた。途中、ユウが私の手を握った。男らしい骨ばった手。優しく握り返す。
「ねぇ、杏奈」
ユウと目があった。艶やかな瞳に、胸が一度大きく鳴った。
「な、なに?」
「あのさ……」
「うん」
「……ぁ、えーと……なんでも、ない」
「え、どうしたの? ユウ今日なんかへんだよ」
「そうかな」
「うん。言いたいことあるなら言って」
立ち止まりユウを見た。すると、彼は恥ずかしそうに言った。
「今日の杏奈……すごく可愛い」
「え?」
「香水とか服装とか……あと、お化粧もちょっと違うし、髪型もすごくいい。ぜんぶ僕のためなのかなって思ったら……なんか嬉しくて……いつもなら、普通に可愛いって言うんだけど、急に恥ずかしくなってさ」
「ユウ……」
「なんか僕らしくないね」
そういう彼の頬は少し紅潮していた。
あぁ、ユウ。私……あなたに出会えてほんとうによかった。
「ありがとう。そう言ってくれて……すごく嬉しい」
ユウに向かって微笑んだ。彼は気づいているだろうか。私がユウの虜になっていること。
ちゃんと気づいているだろうか。ユウとのともに歩む人生を望んでいること。
彼はあまり未来の話をしない。過去の話もしない。ただ毎日、私を大切にしてくれる。ほんとうはこれからのこととか訊きたい。
……結婚のこととか。
でも、さすがに気が早いか。
いっしょにいられる。それだけで、じゅうぶん。幸せってこんな感じなんだなぁとつくづく感じた。
愛ってすごく繊細で甘いんだ。仲良く手を繋いで帰った。
デートは最高に楽しかった。帰ってから寝室で甘い甘い夜の営み。
いつものようにキスから始まり、何度もユウとつながった。ユウが満足そうに眺めて耳元で囁く。
愛してるーー。
そう言って私を何度も抱いた。気持ちの昂ぶった時のユウは、なかなか寝かせてくれない。
狂おしほどの愛を一晩中受け止め続けた。
それはとても甘くて濃厚な夜だった。
翌日、もちろん寝坊した。
「ユウっ、遅刻しちゃううっ!!!」
「ごめんね。タクシー代払うから」
「えええ、タクシーなんてこっからだと高すぎるっ」
「いいよ。僕が寝かさなかったし」
ユウは、ほんとうにタクシーを呼んでくれた。
なんだかんだ優しいユウ。
ユウがいればそれでいいの。それで……ほんとによかったの。でも、現実は私たちに冷たいね。
私はただいっしょにいたいだけなのにーー。
ユウのそばで笑っていたいだけなのにーー。
どうしてこうも引き離そうとするのかな。
ニコニコと笑いかけるユウ。そんな彼はもういない。
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