監禁ー2


 鍵の外れる音に私は驚いて、身体を緊張させた。

 ーーだれかくる。

 じっとりと密度の高い汗が頬を伝っていった。ドアがゆっくりと開く。

「やぁ、目覚めた?」

「ぁ……」

 私は言葉を失った。

 清潔感のあるストライプ柄のスーツ、揺れる髪、笑いかけるその瞳。

 そこにいたのは、道を訊いてきたあの男の人だった。なぜ、この人がここにいるのかわからなかった。

「あの……えっと、なんていうか……私、ただ道を案内してて、そしたら、ボウっとして……気づいたら寝てて……えと……ぁの」

 なんと言えばいいのか。どういう風に言ったら助けてもらえるのか。ちゃんと伝わるのか。そもそも彼はいったい何者なのか。敵か味方か、なにもわからない。

 拘束されたまま、私はさまざまな言葉を巡らせた。

「帰ろうとしてて、でも……ここは知らない場所で……えと……ッ」

 考えすぎて自分でもなにが言いたいのか、よくわからなくなってきた。

 困惑していると、男の人がゆっくり近づいてきた。

 サラリーマン風の男の人。やっぱり普通の人にしか見えない。

 私は必死で言葉を繋げようとした。

「えと、つまり……っ」

 彼が頬にそっと触れた。

「ッ……」

 驚いて男の人を見た。

 彼は無表情で私の頬を優しく包みこむと、ポツリポツリと言葉を紡いだ。

「不安だよね。急にこんなことになってるんだから。でも安心して。教えてあげる」

 男の人は笑いかけるとつづけた。

「きみをここに連れてきたのは僕だよ」

「え」

「監禁したのも僕。わかる?」

「ぇ、ぇ?」

「僕は、きみのことをずっと前から知っていた。知ってて声をかけたんだ。きみに近づくために、わざと道を訊いた。わかったかな?」

 ーー前から知っていた……?

 ーーわざと道を訊いた……?

 意味がわからない。困惑していると、笑い声が聞こえてきた。

「あはは、まだわからないの? 仕方がないなぁ。ーー三野村杏奈、二十五歳。二月一日生まれ。好きなものは、ミニチュア。趣味はスキーと旅行。恋人は六ヶ月いない。それからーー」

 しばらく喋りつづけた。私に関するありとあらゆること。ペラペラと止まることなく、私の情報が言葉として飛び出してくる。

 名前。年齢。誕生日。

 それだけじゃない。住所も勤めている会社もぜんぶ。

 ぜんぶ、知っていた。え、ぜんぶ? って、どこまで? もしかして……すべて?

「そんな……」

「僕はなんでも知ってるんだ。きみが知られたくないこともぜんぶね」

 身体がカタカタと震えだす。

 そんな、まさか。うそ。これってなに。なんで? なんで? ナンデ?

 震えが止まらない。唇も指先も肩もカタカタと揺れる。

 嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘嘘……うそだ。

 全然気づかなかった。これまで、普通に生活してた。入社してからは、ずっと一人暮らし。

 アパートから会社への行き来。時々外出して買い物とか飲みとか行った。深夜のコンビニにはノーメイクで……あれ、よくサラリーマン風の人とすれ違ったっけ。こんな時間にって思った。

 うそ。あれまさか……ーー。

 目が合った。

「お化粧していないきみ、すごく可愛かった」

「……ッ」

「ね、わかったでしょ? 僕は、きみのストーカー。そして、僕の名前はユウ。よろしくね。杏奈」

 ーーうそ。

 落ち着いた物言いと表情。そんな人がストーカー?

 ーー信じられない。コワイ。

 脈が乱れる。息が苦しい。

 いや。だれか。だれかたすけて。

「無視しないでこっち見て」

 頭を掴まれた。目が合ったところで、ようやくユウが笑った。

「杏奈。可愛いね。ずっと遠くから眺めることしかできなかった。けど、やっとこうやって目を合わせられる」

「な、に」

「見てた。きみの通勤姿。オフの日。買い物。ぜんぶぜんぶ、見てた」

「……ッ」

「気づかないのはあたりまえだよ。だって、杏奈に気づかれないように細心の注意を払ってたんだから。僕、これでも頭いいんだ。仕事だってしてるし、今日だってちゃんと会社に行ってきた」

 信じ難い現実。ストーカーされていたなんて気づかない。まさか私に限ってそんなことはないと思っていた。私は声を震わせた。

「ッ……こ、こんなこと……やめて……ちゃ、ちゃんと話せば……きっと」

「きっと?」

「きっと分かり合えるはず。だから」

 その瞬間、頬に衝撃が走った。

「ぇ」

 突然のことに頭が真っ白になった。頬の痛みに耐えながら、ユウを見た。

 ゾッとした。 その顔から笑顔は消えていた。

「……ねぇ。杏奈。きみに決定権なんてないんだよ。だからさぁ……口ごたえは許さない。わかった?」

「…………はぃ」

 それから、彼は部屋を出ていった。次やってくる恐怖とのたたかい。身体の震えは止まらなかった。

 結局、その日ユウは来なかった。

 汗が止まらない。私の身体から、水分が出ていく。

 ユウは来ない。喉が渇いた。水がほしい。

 水……みず……ユウ……。


 午前七時。鍵の開く音がして、そのほうへ視線を投げかけた。

 ドアの向こうからユウが現れた。

「やぁ」

 半日ぶりのユウは、やはりスーツ姿だった。けれど、昨日と色の違うスーツで、仕立ても良さそうだ。

 この人がストーカーなど、きっとだれも知らないだろう。とはいえ正直なところ、それどころではなかった。

 喉が渇いて仕方がない。監禁されて、私はなにも飲んでいなかった。

 緊張と口渇感で、ほとんど眠れなかった。それに加え、この汗。身体が水を欲している。

「……水」

 辛うじて声は出た。

「え、なに?」

「水……ください」

「あぁ、水ね」

「はぃ」

「じゃあ、僕のこと好きって言って」

「え?」

「好きって言ったら、飲ませてあげる」

 好き? 好きなわけない。監禁した相手のことなんて。偽るなんて、そんなの……でも、水は欲しい。

 私は迷った。迷ったあげく答えた。

「…………好き……」

 かすれた声で言ったのち、視線を持ち上げる。

 ドキリとした。ユウの瞳が悲しみに満ちている。

「今、躊躇したよね」

「え」

「すぐに言わなかった」

「ち、ちがっ」

「ーーもういい」

 ユウが背面を見せた。そして、歩き出す。すがるような声で引き止める。

「まってっ、お願いッ……いや、お水……ッ」

 バタン。ドアの閉まる音。ユウは去っていった。

「……ッ」

 静けさの中、私は悔いた。すぐに好きと言っていたら水が飲めた。口の中はカラカラに乾ききっていた。

 ひどい口渇感に襲われながらも、心中は疑問で溢れていた。

 どうして私なの? なぜ、ユウは私を選んだの? ごく普通の私をなぜ?

 考えても答えはでないまま、身体だけが枯れていくようだった。

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