新世界

新世界の名前

 コツンとつま先に当たったのは、紙飛行機だった。

 丁寧に折られた紙飛行機を、なんとなく拾い上げる。翼に何か書いてあった。どうやら、白紙ではなくて、なにか書いてあるらしい。

 好奇心をくすぐられて、私は紙飛行機を広げる。


「なに、これ?」


 落書きというやつだろうか。

 この前、テーブルクロスにこぼした紅茶でお花を指で描いたときに、ノアンにそう言いながら叱られたことを思い出す。

 色鉛筆で殴り書きされた落書き。

 薄紅色の空を泳ぐ魚。空の浮かんでいるのは島。琥珀色の海を飛んでいるのは鳥。

 不思議な落書きに、心奪われた。

 これを描いた人は、きっと自由な人なんだろう。

 私なんかじゃ、思いつかない世界を描ける人が羨ましかった。


 窮屈な聖宮から、連れ出してくれそうな気がした。


「この輪っかが、おひさま?」


ハロ。太陽じゃない、ハロだよ」


 いつからそこにいたのか。大人しそうな男の子が目の前に立っていた。男の子を間近で見るのは、初めてだった。


「は、ろ?」


 首を傾げると、男の子は落書きに伸ばしかけた手で頭上の太陽を指差した。


「ほら、めったに見られないけど、太陽や月の周りに光の輪が現れるんだ。あれは、ハロっていう現象なんだって」


「ふぅん」


 早口な説明は、私はよく理解できなかった。

 でも、男の子の目が輝いていた。


「これ、君の?」


「……うん」


 恥ずかしがり屋なのか、男の子は顔を真っ赤にして首を縦に振った。素敵な落書きを男の子に返してあげた。


「すごいね」


「すごい?」


 信じられないと瞬きをした彼は、すごく嬉しそうに笑った。


「あ、ありがとう」


 落書きを抱きしめた男の子と、友だちになりたいな。ノアンが聞かせてくれたお話しで知った友だちになりたいな。

 他愛もないことをおしゃべりしたり、遊んだり、たまに喧嘩したり……


「あのね……」


「ありがとう。ほんとうにありがとう」


 男の子はボロボロ涙を流して泣いていた。


「どこか、痛いの?」


「ありがとう、ありがとう」


 涙を拭うと、男の子は青年になっていた。


「もう、行かないと」


「えっ」


 泣き笑いというのだろうか。

 彼は宝物のように落書きを抱きしめたまま、くるりと背中を向けてしまう。


「待って!」


 伸ばした手は、もう届かない。


「待ってよ、!」


 追いかけたくても、体が動かない。


「お友だちに、なりたかったのにぃ」


 紙飛行機の男の子は、私の大切な思い出だった。

 泣きじゃくる小さな私を眺めながら、私はぼんやりとそう思った。


 選択肢は、無数にあったのだ。

 可能性は、無限大だったんだ。


 私たちは、何一つ選べなかった。

 影王たちと比べて、私にはノアンがいたことが、救いになっていたのかもしれない。


 まだ、幼い私は泣きじゃくっている。

 私はこんなにも泣き虫だったんだ。

 泣いてなんかいないで、追いかければよかったのに。追いかける方法を、知らなかった。

 大人たちは、本当にひどい奴らばかりだった。私は直接知ることはなかったけども、感じていた。地上を見下す傲慢さや、笑顔の裏に隠れた悪辣な顔を、知っていた。


 泣きじゃくる私を、私は背中から抱きしめる。


「大丈夫。大丈夫、きっとまた会えるから」


 魂は、そうそう消滅しない。巡り巡って、また会えるはずだ。


 泣きじゃくっていた私が、笑いかけてくる。泣いていたのは、私の方だったのかもしれない。




 目が覚めた。

 まだ生きている。

 イェンが身代わりになったのだろうか。


「最悪」


 手をつく場所もない狭い箱のようなものの中で眠っていたらしい。

 真っ暗で灯り一つない中、手を伸ばして箱の縁に手をかけて、どうにか体を起こす。

 声の反響ぐあいから、きっと広い空間にいる。


「本当に最悪」


 暗すぎて何も見えない。下手に動けないではないか。

 あたりの様子を手をバタバタさせながら、探っているとボフッと何かに触れた。なんだか羽毛のような手触りだ。


「お、目を覚ましたか、永遠の少女よ」


「わっ」


 いきなり響き渡った聞き覚えのある声に、飛び上がってしまった。狭い箱の中で飛び上がってしまったから、すぐのバランスを崩して頭からつんのめる。


 ボフッ


「大丈夫か?」


「大丈夫……じゃない、かも。ゲイン」


 ゲインの大きな体が私を受けて止めてくれたようだ。

 暗くて何も見えない。けど、渡り鳥の声に、安心してしまう。


「ここ、新しい世界、よね? 他の渡り鳥はたちは? 人間はどう……」


「待て待て。そう急かすな。まずは灯りをつけるから」


 何かを叩く音がすると、ぼんやりと光が生まれた。

 目が慣れないけど、どうやら火を使わない照明装置のようだった。


「エルドラドの若者かもらったんだ。まったく、まずはわしの質問に答えてくれないか。あの時、後でと言っただろう?」


「あ」


 渡り鳥は、翼で頭をかく。そんな人間じみた器用なことができるなんて、知らなかった。滑稽なしぐさに、笑ってしまった。


「ふふっふふふふあははは……」


 一度笑いだしたら、もう止まらなかった。止められなかった。苦しいくらい笑ったのは、初めてかもしれない。


「なんだ、急に笑いおって。失礼ではないか」


「ごめん、あは、ごめ、ん」


 ゲインが憤慨しているけど、どうしようもない。


「あー苦しかった」


 笑い死ぬんじゃないかと思うほど笑った頃には、すっかり明るさに目が慣れた。

 呼吸が整ってから、箱の外に出るときにようやく気がついたんだ。


「これ、棺、だったのね」


 私がずっと背負ってきた黒い棺の中で、私は眠っていんだ。


「永遠の少女よ、みんなが外で待っておる。行くぞ」


 面白くなさそうにくちばしで照明装置をくわえたゲインのあとについていく。


「突然、街が次から次へと壊れだしてな。時の流れは歪んで、渡り鳥も大混乱だ。我らは、五日に一度街を訪れるための道を、体が知っておったというのに、その見えない道もなくなってしまう」


「それは……大変だったね」


 そういうのが、やっとだった。街が壊れるということは、多くの人間が死んだということだ。


「大変だったとも。渡り鳥の本能とか誇りというべきかな、そういうものに突き動かされて、一人でも多くの人間を乗せなくてはならなかったのだから」


「え……」


 平坦だった地下空間は、階段へと変わる。まだ、ゲインがくわえている照明が唯一の光だ。


「我ら渡り鳥が八羽で、救えた人間は千人程度だった」


「千人……」


 せいぜい十数人しか救えないと考えていたから、嬉しかった。充分だと受け止めるのは、犠牲になった人々を思うと間違いなのだろう。けれども、嬉しかった。


「名前を呼ばれて急いで言ってみれば、新しい世界とかどうとか……気がついたら、こんな奇妙な世界にいて……まったくもって、奇妙な世界だ」


「奇妙な世界?」


「永遠の少女が……」


「ナージェ。私はナージェよ」


「そうだったな」


 くちばしで照明装置をくわえながら、どうやってしゃべっているのだろうか。本当に奇妙な鳥だ。

 この奇妙な鳥も、の空想の産物なのだろうか。


 胸がきりりと痛む。


 は、本当に私の身代わりになったのだろうか。私はどうしても、信じられない。


「ナージェが作り直した世界は、渡り鳥の誰も知らない世界だ」


「なにそれ……」


「やれやれ、その目で確かめてもらうしかないな。ついたぞ」


 ゲインにならって、暗闇の中で足を止めると、ゆっくりと目の前の壁に光の亀裂が現れた。観音開きの扉が外に、ゆっくりと開いていく。


 外には、たくさんの人が歓声をあげている。


 ナージェと私の名前を呼ぶ人もたくさんいて、たぶん旅で訪れた街で関わりのある人もいるんだろうなと、他人事のように考えてしまう。

 けれども、囲まれた私は、目の前に広がる新世界の光景に、言葉を失った。


 薄紅色の空を、魚の群れが泳いでいる。

 頭上から影を落とすのは小さな浮遊島。


 そして、太陽がない。かわりに世界を照らしているのは、ハロだった。


「……イェン」


 本当にいなくなってしまったのだろうか。まだ信じたくない。信じられない。


 ノアンや聖王の世界の創造主のように、どこかにいるんじゃないかって、信じたい。


 こみ上げてくる苦しさは、一人の青年の声に遮られた。


「なぁ、ナージェ。この世界に名前が必要だと思うんだけどさ」


「ナージェが名付けてよ」


 セーターの袖で鼻の頭をこすった青年に、次々と人々が賛成する。


「そうね。名前は大切だものね」


 すっと心に浮かんだ名前がある。


 大きく新しい世界の空気を吸いこむ。


ハロワールド。その名は、ハロワールド」


 私たちがこれから生きていく新しい世界に、挨拶する。


「おはよう、ハロワールド」


 頭上のハロが答えるように、ひときわ明るく輝いた。










 ――あれから二百年が過ぎようという頃、私はひょんなことから、イェンが生きていることを知った。

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