人間とドラゴン
――そうか、残念だ。
影王の声がした。
また、過去の夢に落ちるのかな。嫌だな。
影王は、私のことを憎んでいたのだろうか。私の予言のせいで、双子の兄と引き剥がされて、出口のない塔に閉じこめられたんだ。憎んでいないわけがなかったはずだ。それでも、よくわからない。
影王は、いつだって微笑んでいた。穏やかな微笑みの仮面をかぶって、無慈悲な王としてユートピアに君臨していた。
空を落としたときも、影王は微笑んでいたんだ。その仮面の向こうの心に触れることができたら、あんなことにはならなかったのだろうか。
どうすればよかったのだろう。
私はただ、大人たちに言われるがままに、先見の儀式をしただけだ。
影王子を塔に閉じ込めたのも、輝王子から弟の記憶を奪ったのも、死んでしまった輝王子のかわりに影王子を天空の王にしたのも、全部全部大人たちのしたことじゃないか。私は、ただ予言をしただけだ。
あの大人たちが悪いんじゃないか。
――空よ、おち……
「やめてっ」
目が覚めた……はずだった。
まばたきを繰り返すけども、よく知る渡り鳥の体内ではなかった。
薄暗いし、狭い。膝を抱えるような体勢で眠った覚えはない。
「痛っ」
頭を上げただけで、ゴツゴツした壁にぶつけてしまった。
まだ夢を見ているのだろうか。
この頃、現実味のある非現実的な夢を見なくなったと思っていたのに。
「……最悪」
どうやら、狭い穴の奥にいるようで、斜め上に出口の光が見える。なぜ夢の中で這うようにして進まなければならないのか。
「ほんと、最悪」
出口から顔を出すと、ここが大木のうろの中だったと知る。
霞がかった空を横切るうろこ雲たち。
枝葉が作り出す木漏れ日たち。
それから大空をゆうゆうと飛ぶ――
「ドラゴン?」
思わず目をこすってしまった。
そして、これは夢だと確信する。
赤、青、銀、茶……それから数は少ないけども黒いドラゴンたちが空を飛んでいる。
ドラゴンなんて、空想上の生き物だ。これが夢でなくて、なんだというのだ。
「ノアンが見たら、大喜びしそうな夢ね」
私の身の周りの世話をしてくれた彼女は、ドラゴンが大好きだった。よく、私にドラゴンの物語を聞かせてくれた。優しい声で紡ぎ出される物語は、彼女が作り出したものだったんだ。
そんなお姉さんのようなノアンも、もういない。
霞がかった青い空。
雲とともにゆっくりと流れ行くのは、宙に浮かぶ島たち。天空の街ユートピアとは違って、とても小さくて、いくつもある。
私はどうやら、浮遊する島の大木のうろの中にいるらしい。
ゆっくり下を見れば、花畑が広がっていた。花畑の向こうには、鏡面のような水面の泉がある。
甘い香りは、紫のヘリオトロープだろうか。それから、ピンクの花はコスモスで、白いのはデイジー……高い位置にあるはずのうろの中からでも、不思議なことに彩り豊かな花畑の花たちがわかった。
「夢、だもんね」
夢なんだから、不思議な事なんてちっとも不思議じゃない。
けれども、不思議なのに現実味がある。優しい風も、木漏れ日をつくる日の暖かさも、懐かしくて泣いてしまいそうなほど現実味があった。
景色を眺めて、日のぬくもりや、風の優しさ、うろの樹皮から伝わる心地よい命の手触りに、夢の中なのに夢見心地になってしまう。
「ノアンがいたら、本当に……ん?」
大木の影から、女の子が泉の方へと花畑を駆けていく。
「人間もいたんだ」
タッタッタッという音が聞こえてきそうなほど、軽やかな足取り。
亜麻色の巻き毛がピョンピョンはねている。十歳くらいだろうか。私の外見よりも、女の子のほうが幼い。ふんわりと膨らんだ生成りのスカートからのぞくのは、健康的な素足。突っつきたくなるほど柔らかそうな頬は、走っているせいかほんのり赤い。
「……可愛い」
思わず、声に出てしまった。
夢だからか、女の子が遠のいても、はっきりと表情を見ることができた。
どうやら、花畑には緩やかな起伏があるようだ。
タッタッタッ
軽やかな足取りは、最悪な現実のことなどすべて忘れさせてくれる。
夢の中なのに、夢見心地とはまったくおかしな話だ。目が覚めるまで、最悪な現実のことなんて忘れてしまおう。
可愛いを絵に描いたような女の子の行く手で、繁みがガサガサと揺れた。女の子はまだ気がついていない。
もし、狼みたいな猛獣だったらどうしようと、息をのむ。ここから声を上げて危険を知らせるべきではないか。
意を決して口を開こうとしたときには、遅かった。
「キャッ」
繁みから飛び出したのは、銀髪の男の子だった。
尻もちをついた女の子の何がおかしいのか、男の子はおかしそうに笑っている。可愛い女の子を驚かして尻もちをつかせて、何がそんなにおかしいんだ。
「ロイドの馬鹿っ」
榛色の目にたっぷり涙をためて、女の子は今にも泣き出しそうだ。
男の子は、たちまちうろたえてしまう。
「す、すまぬ。ちょっとびっくりさせたかっただけなのじゃ。……ちょっと、ヘレナの顔がおかしくって、その……すまぬ」
おろおろとする男の子の口調が、あまりにも年寄りじみている。不思議と、違和感がない。
それでも、そのうろたえた姿は子どもらしくて、微笑ましい。
巻き毛の女の子はヘレナで、ふわふわとした綿毛のような銀髪の男の子はロイドというらしい。
どちらも可愛い。
「ロイドのいじわる。せっかく四百年も待ってあげたのにぃ」
「だから、すまぬって。その、あれだ、そんなに驚くなんて思わなかったのじゃ」
いつの間にか、ヘレナの目に溜まっていた涙はなくなっていた。そのかわり、プゥと頬を膨らませている。
四百年とかは、何かの聞き間違いだ。そうでなくても、これは夢なんだから。
「がっかりよ。待ちに待った旦那さまが、こんな意地悪だなんて……」
「だから、すまぬ。本当に、待たせてしまったことも、本当に……」
「許してほしい?」
「当たり前じゃ」
さすがに言い過ぎたと思ったのか、ヘレナはロイドに手を伸ばす。すぐに手をとったロイドは、壊れ物をあつかうかのように丁寧に大切そうに彼女を抱き起こす。それはまるで、小さな王子さまとお姫さまのようだった。
なにこれ、眼福だ。胸がときめいてしまう。
抱き起こされたお姫さまは、ちょっと背の高い王子さまの背中に両腕を回して、上目遣いで王子さまの視線を釘付けにする。
「キスして」
「……へ?」
なんだこの夢は。なんなんだ、この可愛い生き物たちは。私を悶え殺す気か。
「キスしてよ。キスしてくれたら、許してあげる」
「ヘレナ、そそ、それはそそそその……」
これでもかと顔を赤くした王子さまだったけど、お姫さまも負けじと顔が赤い。
「四百年、待ったんだよ。やっと旦那さまに会えたと思ったのに、まだ一度もキスしてくれてない」
「あぁうぅ」
王子さま、男でしょ。さっさと、キスしなさいよぉ。
「早くして。してくれなきゃ、離してあげないんだから」
「わ、わかった」
「ん」
目を閉じて口づけを待つお姫さまに、王子さまはなぜか泉の方を気にしている。
「さっさとしなさいよ」
焦れったい。もし、今目が覚めたら、起きてもしばらく焦れったい思いを抱えたまま、もんもんとするに違いない。ただでさえ、現実は向き合わなきゃいけない問題があるっていうのに。
「……っ」
ついばむような王子さまの口づけは、どこかぎこちなかった。それが、初々しくてたまらない。
私も、王子さまとあんなキスをしたかった。
抱きしめあったまま、顔を赤くしている小さな恋人たちを眺めながら、私の指先は自分の唇をなぞっていた。
空を取り戻せれば、私にもそんな未来があるのではと楽観的に考えていた頃もあった。ずっと忘れてしまっていたけど、旅を始めた頃は今よりもずっと楽観的にだったんだ。
「イェン、君は何がしたいの?」
彼は初めてキスをした相手で、実体化した彼から魔力を回収するたびにキスをしている。今でも嫌悪感しか感じない。
それでも、イェンを相棒として信頼しようとしたんだ。いや、ある程度は信頼していた。だから、彼が影王の側にいたのではという疑惑が生じたときに、すぐに問いただせなかった。どこかで、彼を信じたかったんだ。
「たとえ、君の呪いで築かれた偽りの信頼でも、壊したくなかったのよ」
でも、それももう限界。
初々しくてたまらない小さな恋人たちは、あくまで夢だ。夢は覚めるもの。
ここにいてもしかたないけど、彼らの邪魔もしたくない。
うろの奥に引き返してみようか。
「あ……」
不意に気がついてしまった。泉の鏡面のような水面から青いドラゴンが、頭を半分出している。
もしかして王子さまが気にしていたのは、泉の中にいたドラゴンだったのだろうか。
青いドラゴンは初々しいキスを眺めていた。深い青の目が輝いているから、たぶん微笑ましそうに。
見つめ合っていた王子さまも、青いドラゴンに気がついた。
「……おい」
お姫さまとの抱擁を解いた王子さまの声には、ありったけの怒りがこめられていた。初めてのキスを見たなと、怒っているのだろう。小さな体がひと回りもふた回りも大きくみせる王子さまの怒りに、私までうろの奥に後ずさってしまった。
バレてしまったかと、泉の上に出てきた青いドラゴンは、王子さまの怒りもどこ吹く風だ。
「こんの、クソジジイがぁああああああああああああああ」
風が王子さまの足元から巻き上がると、銀色のドラゴンがそこにいた。ドラゴンの背中には、怒りに頬を膨らませたお姫さまがいた。
青いドラゴンは翼を大きく広げて、水面から浮かび上がる。
「減るものではないから、よいではないか」
「よくないっ」
上空へと逃げ出した青いドラゴンを、銀のドラゴンの王子さまとお姫さまが声をそろえて追いかける。
「きっと、仲がいいのね」
微笑ましかった。
私にも、あんな友達がいたらと、羨ましくなってしまう。友達と呼べるような関係だったかはわからないけど、もっとも親しくしてくれた世話係の顔がまた浮かんでくる。
「ノアンがいたら、本当に喜びそうなのに……」
胸が締め付けられる。
「待ちなさぁい」
「遅いぞ、小閃光。それでも、風竜族の長か」
「クソジジイが、調子に乗るでないわ」
楽しげな声を上げる彼らを、他のドラゴンたちは微笑ましそうに見守る。
なんて素敵な夢なんだろう。
こんな優しい世界だったら、空が落ちるようなこともないだろう。
目を閉じてうろの中で丸くなる。そうしていれば、いつかこの素敵すぎる夢も終わるだろう。そうして、今度こそ先延ばしにしてきた現実に向き合うんだ。
まぶたの向こうが明るくなる。
「ん」
夢が終わったのだろうかと、まぶたを押し上げると景色は一転していた。
ユートピアの宮殿によく似た石造りの広間。目の前には、微笑みながら小首をかしげている女性がいた。
「あらあら、とても可愛い
白く磨き上げられた石の床に広がる純白の髪に、大きめな金色の瞳。不安にかられた夜に、私の顔を埋めさせてくれた大きな胸。ドレープが体をつたう純白の装束。
私は彼女を知っている。忘れるはずがない。
「ノアン?」
私はまだ夢の中にいるのだろうか。
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