棺の少女、夢の空

笛吹ヒサコ

Prologue

水底の街アトランティス

降り止まない雨

 空が落ちても、人々は頭上を仰ぐことをやめられなかった。


 水底の街アトランティスの雨は、冷たくか細い。

 空が落ちてから、この雨は降り止むことを忘れてしまっている。雨音は、街を覆うカビに吸いこまれるように消えて、鬱陶しいくらい静かだ。


 ナージェは雨に濡れるのもかまわず、頭上をずっと仰いでいた。また一つため息をついて、ひたいにはりついた前髪を横に流す。


「うんざりするわね」


 彼女が見上げている先には、仄暗ほのぐら偽空ぎそらが広がっている。この街の偽空は、だった。


「渡り鳥は、まだ来ないのかしら」


 ――もうすぐだよ、ナージェ。渡り鳥は必ず来る。


「そうね、渡り鳥は必ず来る。でもね、私は今すぐこのカビ臭い街から出ていきたいの」


 か細く冷たい雨が降りしきる中で、彼女は黒い棺を背負いなおした。

 雨に濡れたナージェも、美しい。その純白の髪に、金色のを縁取る長いまつげ、水を弾く肌のきめ細かさが際立っている。膨らみかけのおっぱいや、すとんとした腰に小さなお尻に張りついたワンピースが、なんだかいやらしい。


 このカビ臭い憂鬱な街は、かつては水面の宝石と讃えられるほど美しい街だったらしい。鏡面のような湖の上に浮かぶ美しい街を、僕は知らない。ぼんやりと思い浮かべることはできるけど、この街のかつての姿としては想像できない。

 忌々しい雨から地下深く逃げのびた住人たちも、そもそも想像できるか怪しいものだ。


 美しい街の昔話は伝説となり、神話となる。かつての栄光は、いつか神話となるのだろうか。それとも、神話となる前に、忘れ去られてしまうのだろうか。

 移り変わる空を映し出す鏡の湖の上に浮かぶ美しい街を、もう一度思い描こうとして諦めた。思い描くには、今のこの街の姿は、あまりにも惨めだった。


 街に充満する嫌な臭いを、か細く冷たい雨は洗い流してくれない。これまでも、きっとこれからも。


 ――ねぇ、ナージェ。僕ら、もうどのくらい旅をしているんだろうね。


「さぁ。もう、時を数えることもやめてしまったわ。無意味だもの。それとも、そのは時ではなくて、距離のことだったかしら? それも測るだけ無意味よ」


 無意味だとわかっているはずなのに、ナージェは雨に濡れて黒っぽく染まったワンピースの裾をしぼる。ちらりと見えた膝頭が、これまた愛らしい。


「イェンは、私よりもそういうことに無関心だと思っていたわ」


 雨に濡れて不機嫌な彼女には、不愉快な話題だったようだ。


 ――ごめんね、ナージェ。


「別に」


 反省しつつも、別の話題が見つからない。明るい話なんか、この忌々しい雨が全部流してしまう。


 ナージェは仄暗い偽空を、まだ見上げている。

 街の通りから、家から、人の営みを奪った無慈悲な雨の源は、あの仄暗い偽空だ。どんなに降り続いても水が尽きることのない重苦しい偽空は、今にも街を押しつぶしそうで――もしかしたら、そう遠くない未来、街を押しつぶすかもしれない。それは一つの街が消滅することに他ならない。けれども、地下の住人たちの惨状を知ってしまった今では、それも救いのような気がしてしまう。


 か細く冷たい雨の帳の向こうに見えるのは、カビに覆われた街並みだ。青や赤、鈍い色のカビは、水面の宝石と讃えられた美しい街並みを覆いつくしている。偽空から降り続く雨が育んだのは、恐ろしいカビだった。

 かろうじて、建物の形をとどめている場所もあれば、小高い丘にしか見えない場所もある。大小さまざまなカビの塊の中には、人の形をしているカビもある。

 五日前、この街に降り立ったときは、まさかあれが人間の成れの果てとは思わなかった。


「イェン、この街ももうすぐ終わるわね」


 ――地下に逃げた奴らも、そう長くなさそうだったしね。


 気がつけば、ナージェも僕と同じ灰褐色のヒト型のカビを眺めていた。


 空が落ちてから、住人たちを襲った病魔があった。

 体の内外からカビに侵食されて死に至る病を、この街の住人たちは『雨の病』と呼ぶ。か細く冷たい雨に、なんらかの病原菌が混ざっていると、誰かが言い始めた。その仮説を確かめることもできないまま、彼らは『雨の病』から逃れるために、地下深くへと逃げのびることしかできなかった。

 かつて湖の島だったアトランティスの地下は、この地上と同じくらい劣悪な環境だった。下手に横穴を掘れば、病魔をもたらす雨が溶け込んだ湖の水が流れ込んでくる。地表近くは、どんどんカビに侵食されていく。結局、住人たちは深く深く地中に潜るしかなかった。息苦しいほど深く。僕らが出会った住人たちは、体中の色素が薄くなり、五感のうちの視力は低下し、他の感覚が異常に発達していた。彼らは、とても人間とは呼べる姿ではなかった。

 悲惨な街は、他にも数え切れないほど知っている。

 けれども、決して慣れることはない。アトランティスの惨状に、ナージェは心を痛めていた。


 この街の住人たちには、渡り鳥に乗って別の街へ逃れるという希望すら失っている。


「このところ、ひどい街ばかり。早く影王かげおうを……誰っ?」


 不意に彼女は身構えて、前方に気を配る。

 動く者なんていないはずの、か細く冷たい帳の向こうに動く人影があった。いつでも僕を解き放てるように、ナージェは背負っていた黒いひつぎを地面につきたてる。


 ――乱暴にしないでよ、ナージェ。ドスンっていったよ、ドスンって。


「うるさい。……ねぇイェン、君をこのまま置いていったら、棺にはどんな色のカビが生えるかしら。やっぱり、黒?」


 ――やめて、やめて。カビなんて絶対に無理だから、やめて……っていうか、あれ、この街の住人だよ、たぶん。


 ゆっくり近づいてくる赤い歪な人影。


「かつてこの地球には、大海に抱かれたひとつながりの大地パンゲアと、天空に浮かぶ都市ユー……」


 ブツブツと何か言いながらズルリズルリと近づいてくる人影が赤いのは、赤いカビが体中に生えているから。


「……大地が、空を支えていると考えられていた。だが、違った。空が大地を一つに繋ぎ止めていたのだ。ひとつながりの大地パンゲアは、ばらばらに解けて散った」


 その虚ろな声に、ナージェは棺を背負い直す。


「この水面の宝石と呼ばれたアトランティスも、またたく間に水底の下に落ちた。そして、あの忌々しい仄暗い……」


 ――語り部、だったのかな。


 ブツブツと昔語りをしながら近づいてくる人影に、黒い棺を背負った白い髪の少女の姿は見えていない。そう、何も見えていない。

 ナージェはぬかるんだカビに足を滑らせないようにして、男か女かわからない人影に道を譲る。

 カビだけではない嫌な臭いがした。

 これは、命が朽ちていく臭いだ。


 今、ナージェの横をゆっくりと通り過ぎる人影は、口の周りを残してカビにおかされている。ひと言語るたびに、ひと呼吸するたびに、赤黒いカビの胞子が雨に溶けだす。


「語り部だったかもしれないけど、そんなこともう関係ないでしょう」


 ――まぁ、ね。もう、自分が誰だったのかもわからなくなっているだろうし。


「それを嘆く心も、失われているわ」


 それは、悲しむべきことだろうか。それとも、喜ぶべきことだろうか。

 どちらにしても、ナージェも僕もよそ者だ。中途半端な同情など、語り部だっただろう赤い人影には必要ない。


「……愚かな影王が、空を落としてからというもの、ばらばらに解けて散った大地は厄災が……」


 命が朽ちていく臭いは、赤い人影が冷たい雨の帳の向こうに消えても、しばらく残っていた。

 本当に嫌な臭いだ。


「イェン。この街にも影王の手がかりはなかったわ」


 はりついた前髪をかき上げて、ナージェは仄暗い水底を見上げる。

 その金色こんじきの瞳には、強い意志が宿っている。一度たりとも消えることのなかった意志が。


「必ず、必ず、この私が空を取り戻すの」


 ――知っているよ。


 震えるほど強く握りしめられた小さな拳。


 遠くで渡り鳥の翼の音がした。


 ――次の街には、きっと手がかりがあるさ。


 何回も、何十回も口にしてきた気休めにもならない安っぽい台詞。


 渡り鳥は、まだか細く冷たい雨の帳の向こう。


「そう、ね。そう、次の街なら、きっと……」


 次の街がどんな街かは、近づいてくる渡り鳥も知らない。

 それでも、ナージェは黒い棺を背負いながら旅を続ける。



 これは、黒い棺と空を取り戻す使命を背負った罪深き少女の物語だ。

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