1 9 9 2 / キ ー ウ ェ ス ト
アメリカ合衆国の南端の島。キーウェスト。直近の大都市はマイアミ。しかし距離でいえばハバナのほうがよほど近い。
キューバと同じ海峡を見、同じ風に吹かれる街。
わたしはここで、新しいレコードの制作に取り掛かった。施設のレヴェルでいえば、もちろんマイアミで行うほうが良い。だから収録後のトラックダウンはマイアミの最新のデジタル・スタジオで行う予定だった。
でも、録音は。
名うてのキューバン・ミュージッシャンたちを集めて行う録音は、すこしでも
そして集まった、きらめく
コンガ・ボンゴ・ティンバレス・クラーベス・マラカス・グィロ・トレス。独特なキューバン・ミュージックを奏でるための楽器たち。そしてその演者たち。彼らが奏でる、その胸が切なくなるような音といったら!
全編スペイン語のアルバム、しかも全編キューバ音楽のアルバムを作る、といったら当時のレコード会社のマネジメントはひっくり返ったものだ。
しかし、英語圏での何枚かのアルバムセールスでの成功は、所属するレコード会社に多くの富をもたらした。その見返りとして彼らは我々を
我々自身が我々のための音楽を行うこと。そしてそれを世に問うことは、極めて重要なチャレンジだった。
「そんな
政治ではない、とわたしは言った。
ただ、やりたいのだ。
伝えたいのだ。
キューバン・アメリカン社会の一員として。我々が生きた世界を。この多様性を認める合衆国の音楽マーケットに。わたしにはキューバとキューバン・ミュージックに対する燃えるような情熱があった。伝えなくては、と思った。私自身がマイアミの、リトルハバナで育つなかで刷り込まれた遺伝子を、レコードにして、CDにして広めるのだ。この白人達の国に。わたし達のアイデンティティーを。わたし達のリズムを。わたし達の
それが政治なんだよ、とマネージャーは微苦笑して言った。そして黙ってスタジオと、ミュージッシャンのブッキングをしてくれた。
ファニート・マルケスが彼のガット・ギターを持ってスタジオに入った。スタジオに入る前に彼は、わたしを軽く抱擁してくれた。
「きっとすばらしいレコードになる」
彼はそういって、分厚い遮音ドアの向こうに消えて行った。
わたしは息をひそめて、ミキサーブースにいた。
防音ガラス一枚を隔てて、ミキサーブースの端の椅子に、両膝を抱えて座っていた。
あの瞬間のことは、忘れられない。
ファニートが、スタジオ・エンジニアと一言二言、言葉を交わす。ゆるやかな
左手の薬指にボトルネックをはめ、確かめるようにギターのネックに指を滑らせた。
「撮っていくよ?」のミキサーの声に、彼は気軽に首を縦にふった。譜面に目を通し、そして、目を閉じた。
スタジオにいる誰もが、息を詰めて最初の一音を待っている。
ファニートは薄く、微笑んだ。
彼の左手が鋭くギターのネックを滑りながらそして、その一音が放たれた。
ガラス越しのその音を、マイクロフォンが拾い、静寂が立ち込めていたミキサー室のスピーカーから放たれた瞬間。
わたしの身体に電気が走った。
両耳から飛び込んできた白い
その瞬間、わたしは目を見開いて、すべてを悟った。
アルバム全体のヴィジョンが、あふれ出すように見えた。
わたしの全身に鳥肌が立ち、そして背筋を感動が駆け上がっていった。
その時、空調の効いたキーウェストのスタジオは、古きよき時代のハバナに変わっていた。
●
静かな夕べ。
白いギリシャ風の柱を何本も立てた、コロニアル様式の建物。
その前庭で繰り広げられる小さなパーティー。
男達は麻のスーツに身を包み、薄い口ひげをたくわえて。
くゆれる葉巻の香り。
たまらなくセクシーな、はすのパナマ帽から覗く視線。
その手には、マティニ。
そして、熱帯の濃密な空気。
わたしは身体の線を見せる、タイトなドレスを着て、ハバナの夜に歌う。
恋や、
情熱や、
蘭の花や、
ラム酒について。
わたしのヴォーカルに寄り添う、ファニートの甘く、狂おしいギター。
わたしたちは音楽に欲情し、音楽で性交する。
それが比喩でないほどの、切なく甘い調べが、静かな夕べに満ちる。
●
あぁ、それが、わたしがこのアルバムでやりたかったこと。
声高に、カストロを憎むのではない。
本質的に明朗で、ポジティブなアメリカ音楽がわたしに教えてくれたこと。それは、憎しみをぶつけるのではなく、美しさを浴びせること。政治でなく、理想を語ること。そう、これはポリティクスなどではない。これは、センティメンタルな郷愁。それを現代のセンスで描くこと。
わたしは、自分のヴォーカルの前の、バック演奏の収録の時点で泣いていた。
わたし自身が気づかぬうちに、スタジオのソファーで膝を抱えたまま、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
わたしが恋焦がれたハバナがここにある。母が語り、父が夢見た美しいハバナが。
ミ・ティエラ。
その時その言葉が、天啓のようにわたしに響いた。
ミ・ティエラ。わたしの故郷。
そう。ファニートの最初のスライドギターのフレーズが、このアルバムのしかるべきタイトルを教えてくれたのだ。
わたしが、この先もずっと、心に描くべき、理想のふるさと。
あの、美しき、ハバナ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます