1 9 6 2 / キ ュ ー バ 《前編》





「なにか見えるかね、同志?」

 広いカリブ海を見下ろすゆるやかな丘の上に、北の国から来た友人達が小さな小屋を作った。

 その小屋には、すこし地面を掘り、その上にコンクリートで分厚く固めた壁を作った。

「トーチカというのだ。若き同志よヤング・タワーリシチ」と、彫りが深く青い目をしたその大男は言った。


 我らが革命レヴォラルシオーンは成功し、アメリカの手先だった大統領と資本家はこの国から去った。我々の国は、真の平等を実現した若き実験国家として、このカリブの海に生を受けたのだった。

 我らの司令官コマンダンテはアメリカに握手を求めたけれど、彼らはその差し出された手を無視し、冷笑を返した。だからコマンダンテはこの島に帰り、彼らの助けなしでも生きていけることを証明しようとした。

 なにひとつとして、おかしいことのない理屈だ。22歳の若造であるわたしにだって判った。


 けれども彼らは、その我々自身の証明が気に入らなかった。彼らは、自分の手を離れてしまったこの島を、再び支配下に置きたがった。彼らは我らのコマンダンテを失脚させることに躍起だった。


 1961年。

 彼らの手先である兵隊の一群が、我々の島に侵入した。我々は夜陰に紛れてコチーノス湾(ピッグス湾)に上陸しようとした彼らの鼻先に、重機関銃の一斉射撃を与えた。十発に一発混ざっている洩光弾が、ビーム兵器のように上陸してくるその兵隊達の群れに突き刺さった。彼らは慌てふためき、ほうほうの体で撤収した。

 まるで、鉄砲を持った兵隊さんごっこの子ども達を、プロの軍隊が蹂躙するようにやすやすと、彼らの上陸作戦は踏みにじられた。

 そして彼らは、そんな小手先の戦法をやめた。

 彼らはわたし達の主要生産物である砂糖の輸入をやめ、わたし達の島への彼らの物品の輸入も全面的に封鎖した。

 ひどいやり方だった。わたし達の自由を認めず、武力がかなわないと知ると、経済を止め、喉を乾かす手に出たのだ。


 我らが若きコマンダンテは、その時若干35歳。

 アメリカの若き指導者ともてはやされたあのJFKが、42歳。そして、ソ連の書記長だった、ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフは65歳。

 しかし我らが誇り高い革命の申し子は、そんな老人と対等に会話をした。そして彼らのイデオロギーを受け入れる代わりに、アメリカの魔手から我が故郷ミ・ティエラを護ってもらう算段を取り付けてきた。

 我々はまだまだ若かった。その契約は、老獪なロシア人が、若きアメリカの喉元にナイフを突き立てる野心の道具だったことになど、すこしも思い及ばなかった。


 ソ連の力添えで、彼らの軍事顧問が我々の島に訪れた。

 ソ連製の小銃や、機関銃、戦車や戦闘機が供給された。要所要所にはトーチカが作られ、当時職業軍人であったわたしは、とても心強い気持ちにさせられた。

 その、北の国の生真面目で、複雑なユーモアのセンスを持つ友人達と、わたしはトーチカにこもり、対空戦の準備をしていた。


「何か見えるか?」

 息苦しいコンクリートの墓場のようなトーチカを出て、わたしは海とサトウキビ畑を見下ろす丘の上で風に吹かれていた。

 甘い海風。カリブの熱気。わたしは北の友人から借りた双眼鏡で、飽きもせず、海を眺め、空を見ていた。

 海上には、キリル文字(ロシア文字)の描かれた貨物船や軍艦が、時折訪問した。軍事物資と、当座の食料や生活必需品を、ソ連の友人達が運んでくれていたのだ。それを護る、ソ連海軍の軍艦が、静かに洋上を航行しているのが見えた。

 そして、空に目を転じれば、どこまでも澄んだ、故国の空が見えた。

「なにも見えないよ、同志タワーリシチ」と、双眼鏡から目を離さず、わたしは覚えたばかりのロシア語を語尾につけて答えた。大男の北国の友人が、わたしの背中でフッと微笑む気配がした。彼はその大きな手でわたしの肩をぽんと叩き、「何か見えたら呼んでくれ」と言い残して、トーチカの中へ消えていった。


 はじめて手にした軍用の双眼鏡。

 自分のふたつの目の離れ具合とそれぞれの視力にピタリと合うように調整が可能で、完全に調整しきればまるで肉眼のように自在に遠景を間近に見ることができた。

 わたしは夢中だった。

 海岸線を飽きず眺め、そして海原を見つめた。時折、クジラたちが潮を吹きながら、はるか沖合いを泳いでいくのが見えた。また、女たちが肩にサトウキビの束を担いで、トラックに運んでゆく姿が見えた。空を見上げれば、真っ白な入道雲の山々を仔細に眺めることができた。まるで自分があの雲の尾根や谷間を飛翔しているかのように思えることがあった。


 あの時。

 サトウキビ畑で政府軍の戦闘機に狙われた時。

 わたしは九死に一生を得た。二度の狙撃が空振りに終わり、まわりのサトウキビ畑は見るも無残になぎ倒された。そして戦闘機は兄とわたしを狙うことを諦め、丘の向うへ飛び去ってしまった。今にして思えば、あの飛行機の着陸すべき空港は、もはや我々革命軍に陥落させられていたのだ。あの飛行機は帰る場所すら失ったまま、戦闘行為を続けていたのだ。

 空しかった。

 その爆音が去り、真っ白だった思考がようやっと戻ってきた時、わたしは兄を探した。そしてなぎ倒されたサトウキビの林の中で息絶えている兄を見つけた。わたしの思考はもう一度真っ白になり、そのまま何分もずっと、黙って地面に倒れた兄の姿を見つめ続けていた。

 何をしたらいいのか、分からなかった。兄は背中を撃たれ、血を流して死んでいた。わずかな生命の痕跡すら、感じられなかった。気まぐれな死神の手招きに引かれるように、兄はただ黙って、顔をサトウキビ畑の土に埋め、しっかりと死んでいた。自分の頭と背中を、ミ・ティエラの暑い太陽がいつまでもき続けているのを、わたしは他人事のように感じていた。


 その時。

 双眼鏡を覗く視界の端で、白い雲の中を何か黒いものが横切った気がした。



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