1 9 9 0 / マ イ ア ミ
真っ青なカリブ海の上を、白い一本の高架橋路がまっすぐに続いてゆく。
マイアミから南へ。キーラーゴからキーウェストまでの道のり。南の島々を繋ぎながら、
わたしはいつの間にか三十三になっていた。
奨学金で大学に行き、卒業とともに夫と結婚した。学生の頃から楽しみのためにやっていた音楽は、やがて私と夫をショー・ビジネスの世界へ連れて行った。ラテン・アメリカの世界では何枚かのレコードを作ることに成功した。そしてそれに伴ってある程度の支持も得た。次にわたしたちが狙ったのは、アメリカ音楽の世界だった。より洗練されて、より広いマーケットを持つ、アメリカ音楽の世界。
初めてスペイン語を離れ、英語で歌詞を書いた。アメリカ風の音楽の作り方を研究したけれど、わたしも夫も、そしてバンドの仲間も、どうにも納得のいく音楽が作れなかった。間弱の合わない借り物の服を着た、窮屈さから抜け出せなかった。それは当然のごとくセールスにも反映し、わたしたちの
それでレコード会社からは猛反対されたけれど、わたしたちは結局自分達にしかできない音楽をやった。キューバ生まれの、ハバナの血を継ぐわたしたちにしかできない音楽。アメリカのロックのビートと、ラテンのリズムを融合した。カリビアン・サウンドに、ポップ音楽のエッセンスを持ち込んだ。わたしたちにはそういう音楽しかできなかったし、それが認められないのなら、別にショービズに未練はないと思っていた。
何故かそんなヘンテコな音楽を受け入れてくれたのは、
そしてわたしたちは、メジャー・アーティストの仲間入りをした。合衆国で広く名の知られた大手のレーベルが電話をかけてきて、わたしと夫は彼らの提示した契約書にサインをした。まるで夢みたいだった。
三十三年前、手に持てるだけの荷物を持って、ボートでハバナを離れたわたし達。革命の年。その頃私はまだ1歳半。シーツに包まれ、母に抱かれたまま海を渡った。マイアミのスラムでの暮らし。ハバナに残った父。カストロ政権による彼の投獄。そして釈放。父は国外退去処分となり、こちらにやってきた。再会。4つになっていたわたしは、写真でしか見たことのない父に抱かれ、泣いた。思い出す低所得者住宅でのつましい暮らし。踊りながら遊ぶ、キューバ人街での幼い日々。
ただひたすらまっすぐなR1を南下しながら、わたしは自分の来し方を思う。
キーウェストまで下れば、海を挟んでキューバの首都、ハバナまではたったの100マイル。このコーヴェットのアクセルペダルを踏み続ければ、たった一時間でついてしまう距離だ。
ミ・ティエラ(わたしの生まれ故郷)、とわたしは思う。
わたしはあそこに何を残し、何を託すのだろう。
話にしか聞いたことのないハバナの町並み。幼い頃、両親がかけてくれたドーナツ盤のレコードから流れる、底抜けに明るいキューバン・ビート。そして白い歯を見せて笑う陽気なキューバ人達。
わたしにはわかっている。わたしの魂の半分は、まだあの街に残っているということを。合衆国で合衆国風のレコードを売り上げても、それは本当の意味での成功とは言えないということを。
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