第16話

《こちら臨時防空指揮所! 作戦司令部へ! こちらへ高速移動中の航空機を捕捉! 味方ではない! 繰り返す、味方ではない!》


 その言葉が終わる頃には、既にバセットは声を上げていた。


「総員退避! テントは放棄して構わん! 直ちに撤退だ! 敵の足は速いぞ、急いで輸送車を回せ!」


 あちこちから『了解!』と復唱の声が上がる。それを耳にしながら、バセットは家族の方へと振り返った。


「ほら、お前たちもだ」

「わ、分かったわ。ほら、ルナ!」

「……」

「ルナ?」

「嫌!!」


 ルナは叫びながら、キッと父親を睨みつけた。


「ここにいたら危ないんだ。お父さんもすぐにお前たちに追いつく。だから早く逃げなさい」

「嫌よ! お父さん、一緒に来て!」


 戦闘員たちが次々に報告を上げる中、バセットはしゃがみ込んでルナと目線を合わせた。そこには、穏やかな笑みが浮かんでいる。そして、空を裂く音が響いた。パシン、と。


「お、とう、さん……?」


 呆気に取られるルナ。それはそうだ。あれだけ穏やかな表情をしていた父親に、突然引っ叩かれたとなれば。


「ルナ、お父さんは今、とても後悔している。お母さんと結婚し、お前を授かったことを」


 淡々と言葉を繋いでいくバセット。


「お父さんは、いや、私は戦う宿命の元に生まれてきた人間なんだ。それなのに、妻を娶り、子供を設けた。今、私は『とても後悔している』と言ったね。大切な人と共に戦いに出るということがこんなに恐ろしいことだとは、予想だにしなかったんだ。マーツ、ルナ、本当に済まなかった。こんな男の人生に付き合わせてしまって」

「そんな、あなた!」


 バセットは立ち上がり、妻を見つめた。


「マーツ、君が選択を誤らなければ、こんな男と一緒に戦場を巡る人生など、送らずに済んだかもしれないんだ。だが、その誤りは私の誤りでもある。申し訳なかった」


 その時、ルナは直感した。父はこの場で死ぬ気なのだと。だからこそ、再び叫んだ。作戦司令部の天幕を震わせるような勢いで、


「お父さん、死なないで!!」


 と。

 その場にいた誰もが、一瞬足を止め、ルナの顔、正確には、強い決意のこもった瞳に見入った。

 

「ルナ……」


 流石にこれには、バセットも狼狽した。顔が歪むのを、辛うじて押さえつける。

しかしマーツは、そうはいかなかった。その場にうずくまり、嗚咽を漏らし始める。


「ねえお母さん、あたしたち、死なないよね? お父さんもお母さんも死なないよね?」

「ええ……」

「あたしが生まれてきたのも、間違いなんかじゃないよね?」


 マーツは、はっとした。


「そんな、間違いなわけないでしょう!?」


 そしてぐっと上半身を折り、ルナを抱き締めた。


《所属不明機、作戦司令部の上空到達まで、あと百五十秒!》

「さあ、行くんだ二人共」


 バセットはできうる限りの理性を動員し、そう語りかけた。


「奥様、ルナちゃん、早く人員輸送車へ!」

「さあ、行くわよルナ!」


 鼻声でルナの手を引くマーツ。だが、それを引き留めたのはバセットだった。


「マーツ、ルナ」


 そう呼び止めると、懐から青く光るものを取り出した。サファイアが結びつけられた、簡素な首飾りだった。


「これにはおまじないがかけられているんだ」

「おまじない?」


 オウム返しに訊き返すルナ。それに大きく頷いてみせてから、


「これを光に掲げてごらん。もし輝いていたら、我々は三人共無事だということだ」


 滅茶苦茶な理屈だと思う。だが、当時のルナに、理性的にものを考える余裕はなかった。


「本当?」

「ああ、本当だ」


 父親の微笑みと、サファイアの青い光を交互に見合わせながら、ルナは小さく頷いた。


「よし。ルナはお母さんと行きなさい。モーテン!」

《はッ、バセット少佐!》

「これよりお前たちを救出に向かう! 救援ポイントには到達したか?」

《到達まで、あと九十秒!》

「了解、こちらもすぐに向かう。なんとか持ちこたえてくれ」

《了解!》

「救援部隊、ポイントC-1から4で陸路で向かうぞ」


 そうしてバセットはルナに背を向け、駆け出した。それが、ルナの記憶にある限り、最後の父親の姿だった。


         ※


「あたしたちが発車してから、すぐに火柱が上がってね。凄い眺めだった」


 これほど戦ってきたルナが『凄い』と言うのだから、本当に凄い空爆だったのだろう。暴力的な、という意味で。


「それで、お母さんはどうしたんだ?」

「車両で移動中に離れ離れになった。救援物資を受け取る関係でね」

「ふぅん……」


 なるほど、そういうことがあったのか。モーテンたちを救出すべく、自らも敵性地域に乗り込んでいった父親。度合いは分からないが、ルナ本人が『似ている』というのだから、俺はバセット少佐とそこそこ似ているのだろう。


 敵を助ける敵、すなわち衛生兵などは真っ先に狙われる。歩兵戦では、一人の衛生兵が斃される度に十名近い兵士が道連れになる、とすら言われていた。それだけ危険かつ重要なポジションで、モーテンたちを救援に向かった少佐。

 考えてみれば、モーテンは常に俺に気を遣ってくれている。俺が『かつて自分を救ってくれた上官の娘が認めた人間』だからこそ、なんだろうか。


 ふと、一つ気になった。


「なあ、もしよかったら、そのサファイアの首飾り、見せてもらってもいいか?」


 するとルナは、防弾ベストの胸ポケットからそれを取り出した。流石に俺は触れるのが躊躇われたので、その場でじっと眺めることにする。

 この薄暗い輸送車内で、柔らかな光を反射する青いサファイア。その輝きからは、確かに大らかさ、穏やかさ、包容力といったものが感じられる。親が子供を思う気持ちが反映されたかのようだ。


「綺麗だな」


 そう呟きながら見入っていると、


「ねえ」


 と呼びかけながら、ルナが顔を寄せてきた。俺は、頭頂に血液がどっと流れてくるのを意識する。今頃俺の顔は真っ赤だろうな。


「な、なんだい、ルナ?」

「答えになったかな?」

「え?」

「その、あたしがあんたを殺さなかった理由。こうして特別扱いしている理由」

「ああ……」


 親父さんに似ている、ということだったな。

 これはガルドとリフィアの兄妹にも言えることだが、ルナは、なまじ両親と過ごした時期の記憶を有するが故に、両親の不在をなんとか埋め合わせようとしている、そんな気がする。

 ルナもまた、両親にとって代わる、頼れる人間、甘えてもいい人間を探しているのかもしれない。そんな人間関係をどうやって築くべきか、模索しているのかもしれない。


 俺が親父さんの代わりに? いや、まさかな。『味方の撤退を援護するために戦った』という共通項があるだけで、俺は捕虜以上でも以下でもない存在だ。まあ、今はブルー・ムーンのために戦ってはいるが。


 いや、待てよ。俺は軍に入隊した時から、ブルー・ムーンを敵性武装集団と見做し、その殲滅を使命として胸に刻んできたのだ。それが僅か数日経っただけで、今度は政府軍の掲げる『正義』を疑い、あろうことか政府軍に対し反旗を翻している。


 俺にとっての『正義』とは何だ? 俺が戦っている理由は? そもそも俺は何者なのか?


「リック?」


 あまりにも近くで囁かれ、俺ははっと正気に戻った。

 

「何か悪いこと、思い出させた?」

「い、いや、大丈夫だ、ルナ」

「ならいいけど」


 そう言って、ルナはすぐに顔を逸らした。輸送車が次々にエンジンを吹かし始めるのをBGMに、俺たちはしばし、沈黙した。

 その固まった空気を解いたのは、モーテンだった。


「おーい、もう少し詰めてくれ。リフィアを乗せてやってほしいんだ」

「は、はい」


 ルナが身じろぎするのを感じて、俺は辛うじて子供一人が座れるだけのスペースを空けてやった。


「あっ、人質さん!」

「おう」


 リフィアはぱっと笑顔になった。


「モーテンのおじさんから聞いたよ! ルナお姉ちゃんが危なかったところを、助けてくれたんだよね!」


 いや、俺は囮になっただけなのだが。自分の活躍に尾ひれが付くのはどうかと思ったが、まあ子供の言うことだ。放っておこう。


「ねえ人質さん、人質さんはずっと私たちの味方?」

「え?」


 俺が呆けていると、ルナが『こら』と軽くリフィアをたしなめた。


「人質っていうのは、立場が複雑なの。そう簡単に答えられることじゃないよ」

「えーっ、でも人質さんは、私たちのために戦ってくれたんでしょ? だったら味方だよ!」

「どうなんだ、リック?」

「ええ?」


 俺は余計に困惑した。ここで話題をこちらに振るとは、ルナも意地が悪い。


「俺は、生きていたいんだ。そのために最善の策を取る。それだけだ」


 ルナはこれでいいと判断したのか、リフィアに再び声をかけた。


「ほらリフィア、ハッチを閉めるよ。手が挟まれないようにしなさい。移動中はじっとしてること。いい?」

「はあい」


 すると、リフィアは陽気に鼻歌を奏で始めた。これから空襲を受ける、という状況には慣れきってしまったのか。

 俺は複雑な思いに囚われつつ、ゆっくりと目を閉じた。

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