第10話

 アパートの共用玄関はきれいなものだった。これまでの道々のように物が散乱しているとか、壊れているとかそういったことはなかった。

 一階の管理人室の小窓を覗いてみたが誰もいない。

 軋む木の階段を登って二階へ。

 バランスを崩さないようにと手をついた壁。指先に凹凸の感触があって見ると引っかいたような傷があった。

 朝はなかったものだ。斜めに四本の線が走っていたのだ。

 ユウはゾッとした。まさか本当にこのアパートに魔物が入ってきているのか。

 母と妹の姿が脳裏に浮かび、ユウは焦る気持ちを抑えて慎重に進んだ。

 自宅である202号室のドアが半分開いていた。

 ユウは自分の呼吸が浅く速くなっているのを感じた。

 ドアの隙間から自宅内を覗き込む。

 玄関を入ってすぐのダイニングキッチにそれはいた。

 「ゴブリンだ……」

 小柄な体躯に不釣合いな大きな頭部。小枝のような手足に餓鬼のように膨れた下腹。

 文献で見ただけで本物を見るのはユウも初めてだった。

 実物は挿絵で見るよりはるかにグロテスクだった。

 大きな目玉は左右で別々に動き、絶えず部屋の中を見回している。口は常に半開きで犬のように涎が垂れて糸を引いていた。

 皮膚は薄く緑がかっていて爬虫類のようだが鱗はなく哺乳類同様の肌だ。

 その動きは落ち着きがない。警戒するようにしゃがんでみたり、次の瞬間天井を見上げてそのまま動かなくなったかと思えば大声を張り上げた。

「■■■■ッ! ■■■■、■■■■■■■。■■■ッ! ■■■ッ! ■■■ッ! ■■■■■」

 ただ威嚇するだけの、大きな音を出すだけの動物の鳴き声とは違う。わずかに言葉としての法則性が伺えて気味が悪かった。

 神経質に両の手を合わせて弄び、探るようにその鋭い爪で床をコツコツと叩く。

 ユウは身を乗り出した。ダイニングには家族はいない。争った形跡もみあたらない。それならばゴブリンが入ってくる前に逃げられたのだろうか。

 それなら自分も早くここを離れよう。そう考えたときだった。寝室の方から床が軋むような音がした。

 ゴブリンは猛禽類のように首を回して音のする方を見た。

 「■■■■ッ! ■■■■ッ! ■■■■ッ!」

 威嚇するように咆えて寝室のドアの方へとにじり寄っていく。

 姿勢を低く、獲物に忍び寄る獣のように身体を床に這わせるようにして近づいていく。

 ゴブリンはドアの前でうろうろと歩き始めた。開け方がわからないのだろう。

 しばらくドアの前で唸った後、鋭い爪でガリガリと引っかき始めた。

 「ひっ……」

 こらえきれず漏れ出た悲鳴。それは聞き間違えようもない、ベルニカの声だった。

 ゴブリンが木の板一枚向こうの獲物に興奮して身を震わせるのと、ユウが部屋へ突入するのは同時だった。

 ぐるりと大きな頭が旋回して、知性の欠片も感じさせない大きな目玉がユウを捕らえる。

 「■■■■■■■■■■■■ッ!」

 ゴブリンの咆哮にユウはたじろいだ。

 部屋へと突入したユウに策はなかった。ただベルニカが寝室に隠れていて、それをゴブリンが狙っている。その後の惨劇を想像したときには身体が動いていた。

 「■■■■ッ! ■■■■ッ!」

 「ひっ!」

 蛇に睨まれた蛙のように大声で威嚇されただけで肩が飛び跳ねて膝が震えた。

 どうすればいい? どうすればこの状況を切り抜けられる?

 (倒す必要はない。とにかくゴブリンがここからいなくなってくれればいいんだ。僕が囮になってここから連れ出せば……)

 そこまで考えてユウが片足を一歩分引く。きびすを返して逃げようとしたのと同時にゴブリンが飛んだ。

 寝室前からユウの立つ玄関まで、部屋の隅から隅までをゴブリンは一度の跳躍で詰め切るとユウの足を掴んだ。

 ゴブリンはユウの足を握り潰さんばかりの握力をこめると思い切り引いてユウを転倒させた。

 「ぐっ、あ!?」

 一瞬のうちに捕らえられたユウは受身も取れず背中を床にうちつける。

 ゴブリンは間髪いれず馬乗りになって襲い掛かった。

 鋭くも不揃いの黄ばんだ歯をガチガチと鳴らしてユウの首を噛み千切ろうと襲い掛かる。

 ユウは両手でゴブリンの頭部を掴んでなんとか抵抗してみせる。

 すると今度はゴブリンの干からびた細い枝のような腕が伸びてユウの首を掴んだ。

 ゴブリンに首を締めつけられるがユウはそれを振りほどけない。細腕のどこにこれだけの腕力があるのか。恐ろしく思うほどの怪力だ。

 苦しい。息ができない。

 見る見る顔が赤くなっていくユウ。

 身をよじって逃れようとするがゴブリンの方が何倍も力が強い。

 暴れるユウを黙らせるため、ゴブリンは首を絞めた腕を振り回した。

 ユウはされるがまま頭を床に打ち付けた。

 何度も何度も何度も。ヒステリックに叫び続けるゴブリンにユウは為す術がなかった。

 「ユウッ!」

 ユウの意識が遠のいていくそのとき声が聞こえた。

 それは母アリシアの声だった。

 驚いたのはゴブリンの方だった。

 玄関でユウを絞め殺そうと襲い掛かっていたゴブリンは背後の寝室から聞こえた声に飛び上がって驚いた。

 ゴブリンにとっては外敵に挟まれた形になったのだ。

 「■■■■ッ! ■■■■ッ! ■■■■ッ! ■■■■ッ!」

 ガチガチと歯を鳴らすのは警戒音なのか。

ゴブリンはユウから離れると人間二人からじりじりと離れた。

 「母さん駄目だ! 部屋に戻って!」

 ゴブリンの目玉がせわしなく動きユウとアリシアを見比べる。

 どちらを先に食ってやろうか。目玉はそう言っているようだった。

 「■■■■■■■■ッ!」

 ゴブリンが突然走り出す。コンソールテーブルに足をかけると花瓶も写真立てもなぎ倒して台に登り、鋭い爪を壁に食い込ませて壁から天井へと這い上がっていく。

 ぐるりと回した首がアリシアの方を向くと天井を駆けて飛びかかる。

 母の悲鳴。

 今度はアリシアを押し倒して馬乗りになると首を絞めようと両手を伸ばす。

 「やめろ……」

 ユウは朦朧とする意識の中でそれを見た。

 魔物に襲われる母の姿。半開きの寝室の扉の向こうで泣く妹が見えた。

 立ち上がろうとしても手足が言うことを聞かない。

 這ってでも母を助けに行かなければ。ユウ全身に力を込めたそのとき、背後で轟音が鳴り響いた。

 ゴブリンの動きが止まった。と、一拍の間を空けたかと思えば今後は前後も忘れて叫びだした。アリシアの上から転げ落ちてもだえ苦しむように床を転がった。

 見ればゴブリンの片腕が、二の腕から先がなくなっているのだ。

 いったいなにが起こったというのか。ちぎれ飛んだ腕の先がぼとりとユウの側に落ちた。

 「その人から離れて」

 ユウが振り返るとそこにはレギンが立っていた。

 絵本を片手でしっかりと抱いて、空いたもう片方の手をゴブリンへと向けている。その指先からは細い白煙が立ち上っていた。

 レギンは五指をゴブリンへと向けるとわずかに目を細めた。

 「下等生物がよくも」

 これまで聞いたことがない冷たい声色。それが合図だった。

 五指の先から再び雷鳴のごとき轟音が響くと、ゴブリンの全身に五つの大穴が開いたのだ。

 遅れてレギンの手の甲から細い筒が五つ、甲高い金属音を立てて床に散らばった。

 ユウが目を見開いたときにはすでにゴブリンはこと切れていた。まさに一瞬の出来事だった。

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