第5話
翌朝ユウは重たい瞼をこすりながら出勤することとなった。
昨夜は大変だった。歩きながら思い返した。
母との話にひと段落つく頃には日付が変わる時間になっていた。
今日のところは切り上げて眠ろうとなったのだが問題があった。
レギンの寝る場所がない。狭い家だ。簡単に彼女専用の部屋をあてがってやるのも難しい。
「ベッドは……」
ユウの家にはベッドは一つ。母と妹の寝室にあるものだけだ。セミダブル程度の大きさなのでレギンが一緒に寝るのは難しいか。
妹がレギンを怖がっていたことも問題だ。ベルニカが目を覚まして目の前にレギンがいたらまた大泣きしてしまうかもしれない。
加えてレギン自身がユウの側を離れようとしなかった。アパートはトイレが共用なのだが、それにもついて来ようとする始末だったのだ。まだ生まれたばかりの赤子も同然のレギン。不安なのだろう。
ベッドが使えずユウの側でなければ駄目だというならダイニングキッチンのソファーしかない。ユウは普段ここで寝ているのだ。
「自分は床で寝るか」と寝床を譲ろうとしたがここでも問題が起きた。
レギンがソファーで横になることができなかった。
問題は彼女の姿かたちによるものだった。
背中にいくつもの突起があり、尻尾があり、手足は人のそれより一回り以上太く長い。加えて鋼鉄製の鋭い爪。
ソファーに座ろうとしても尻尾が邪魔をし、横になろうとしても背びれが邪魔。そもそも爪が引っかかり革張りが破れた。
「この上に乗るの難しい……」
レギンはうまくソファーでくつろげず少し膨れているようだった。
「まいったな。どうしたものか」
ユウは困り果てたがふと疑問が浮かんだ。
「そもそも君は眠る必要があるのかな?」
レギンは人ではない。それ以前に生き物かどうかも怪しい。ユウの疑問はもっともだった。
「ネル? よくわからない」
「こうやって横になって目をつむるんだ。眠って一日の疲れを癒すんだよ」
ユウがソファーに横になって実演してみせたがレギンはピンときている様子はない。
「僕はもう疲れたよ。今日はいろいろあったから……、今日は、もう……、ね、て……」
「…………ユウ?」
ゆさゆさ。
「はえ? あ、ごめん落ちちゃった。レギンはどうしようか。ベッドもソファーも駄目だから、とりあえず椅子でどうかな」
ユウは丸椅子を勧めた。これなら尻尾が邪魔をすることもない。レギンには申し訳ないが横になるなら今日のところは床で寝てもらう他なかった。
「ごめんね。君の寝床は明日また考えるよ」
一度横になってしまったのがいけなかった。ユウは自分がすごく眠いのだと気がついた。
「ん、いい。横にならなくても平気」
レギンは丸椅子に座った。足が長いので少し窮屈そうだった。
「そっか」
ユウは壁に取り付けられたガス灯のバルブをひねって火を消した。
部屋は暗くなりユウはソファーへ寝転んだ。
「おやすみ。また明日ね…………」
「……ユウ?」
ゆさゆさ。
「ふえ? なに、どうしたの?」
「どうして止まるの? どうしてなにも言わなくなるの?」
「いや、寝るってそういうものだから」
「動かなくなる?」
「そう。それから寝ている人にむやみに声をかけたり、ゆすったりしちゃいけないんだ」
「……わかった」
「じゃあもう一度おやすみ。眠るときはこう言うんだ」
「おやすみ?」
「そう。おや、すみ…………」
「…………ユウ?」
ゆさゆさ。
「いや、寝たいんだけど」
「寝るはいつまで続く?」
不安そうなレギンの声色。
「ああ、そうだな……」
ユウは身をひねって壁にかかった時計を指差した。
時計の見方を簡単に説明して、針がユウの起きる時刻を指す位置を伝えた。
レギンは本当になにも知らないのだ。明日からいろいろ教えてあげよう。ユウはそう思いながら今度こそ眠りについた。
「…………ユウ? 変な音が聞こえる」
ゆさゆさ。
「……風の音だから」
ゆさゆさ。ゆさゆさ。
結局この後ことあるごとに起こされることになった。そうしてどこかで意識が途切れて次に気がついたときには朝になっていた。
眠った気はぜんぜんしなかった。
朝日がカーテンの隙間から差込んで、光の中で埃が舞っているのを寝不足の半目で追う。
「レギン……?」
丸椅子に彼女の姿はない。あれほどべったり側にくっついていたのに?
上体を起こそうとしたそのとき、母と妹の寝室のほうで泣き声が聞こえてきた。
なにごとかと部屋に入るとベッドには母に泣きつく妹ベルニカとうろたえるレギンの姿があった。
「どうしたのさ」
「おはよう。それがね、レギンちゃんがベルニカを起こしちゃったのよ。そしたらこの子、レギンちゃんの顔を見るなり泣き出しちゃって。ほら、昨日も怖がっていたでしょう」
レギンを見てみると顔を青くしてうろたえているのがわかった。
「私は、あの、ユウはなにも言ってくれなくて、私寂しくて、アリシアなら話してくれると思って」
必死に弁明するレギンをアリシアはやさしく撫でた。
「いいのよ。この子もほんの少し驚いただけ。あなたまで泣く必要はないわ」
大泣きするベルニカと取り返しのつかないことをしてしまったと今にも崩れ落ちそうなレギンをアリシアはその母性で優しく包むのだった。
その後朝食をみなで囲んで食べたが、ベルニカのレギンに対する警戒心は薄れることはなかった。
レギンもベルニカに苦手意識がついてしまったのか食事中はユウの背に隠れておそるおそる様子をうかがっていた。
「僕は仕事に行かなきゃなんだけど、レギンをまかせちゃって大丈夫かな?」
ユウは険悪になってしまった二人を心配そうに見比べた。
「ええ、大丈夫よ。レギンちゃんは良い子だもの。きっとすぐ仲良くなるわ」
ユウの心配をよそにアリシアはのんきにそう言った。
ユウは手負いの狼が向けるような警戒心でレギンを睨む妹に一抹の不安を抱かずにはいられなかった。
できることなら仕事を休んでレギンと一緒にいたかったが、悲しいかな家計を思えばそういうわけにもいかなかった。
「ほら、ユウ」
出勤の時間になって母アリシアが外套と帽子と、それからマスクを取ってくれた。
「ありがとう」
見送るレギンの顔はどこか不安の色が見て取れて、後ろ髪引かれる思いだった。
「できるだけ早く帰ってくるよ」
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