六年の孤独

 またも語られた奇妙な話。真実か、それとも虚構か分かりませんでしたが、私の心は既に囚われてしまったのかもしれません。アイスコーヒーを飲み終えたというのに、出て行く気持ちがまったくなかったからです。

 ですので、新たな客が入ってきたとき、何かを期待してしまったのは否めませんでした。


「いらっしゃいませー」


 ウエイトレスの声。入ってきたのは二十代の男性でした。私と同じようにスーツを身に纏い、髪型もきっちりセットしていて、とてもおしゃれでした。


「マスター。アールグレイを一つ」


 マスターはこくりと頷き、茶葉をティーポットに入れて、お湯を注ぎ、十分蒸らして、紅茶を淹れました。

 その香りはテーブル席の私まで届きました。

 男性は一口含んで、感想を言います。


「香りと味が素晴らしい。評判どおりの店だな」


 褒められてもマスターは何も言いませんでした。代わりにウエイトレスが「ありがとうございます!」とにっこり微笑みました。


「さてと。俺も語らないといけないな」


 男性はなんだか気が進まない様子でしたが、やるべきことだからやるぐらいの感覚で語ろうとします。


「菊池さん、あなたの話を聞かせてください」


 多分、決まり文句なんでしょう、ウエイトレスがそう促しました。


「なんといえばいいのだろうか。まあ、『六年の孤独』とでも題しておこうか」


 男性――菊池は語り出します。

 それは悲しき罪の話でした。




 俺が乗っていた船が難破したのは、今から十年前のことだった。酷い嵐で乗客のほとんどが死んでしまったらしい。俺は運が良かった――いや、後のことを考えると良かったのか分からないが。

 とある島に漂流した。そこは温暖な気候で一年中果実が生えていた。それに人間を襲うような肉食獣は居なかった。魚も豊富で簡単な仕掛けでも獲ることができた。

 当時十五の俺は、一緒に乗っていた親父と母がどうなったのか、分からずにその島で生活することにした。火を起こす知識は知っていた。親父が教えてくれた。慣れるまで時間がかかったが、それでも火を見ると落ち着けた。

 このまま独りきりで死んでいくのか不安だった。誰かと話がしたかった。


 そんな俺の願いを聞き入れたのか、漂流してから二日後、浜辺に誰かが倒れているのを見つけた。

 女の子だった。俺より二才年下の女の子。名前は裕美だった。


 初めはパニくって、話を聞いてもらえなかったが、徐々に落ち着いて、ここが無人島だと知ると彼女は言った。私たちはここで暮らしていかないといけないのね。

 俺はそんなことはないと否定した。必ず誰かが助けに来ると。


 とりあえず俺は自分の身の上話をした。親父の名前、母の名前、そして自分が日本の某県の中学生であること。

 親父の名前を聞いた瞬間、裕美の顔が強張った気がした。でも一瞬だったからよく分からなかった。

 裕美は母子家庭だった。母と離れて海外留学するつもりで同じ船に乗っていたらしい。

 俺たちは誓い合った。絶対に生きて日本に戻ろうと。


 そうして二人の共同生活が始まった。

 裕美は賢かった。すぐに生活に慣れてしまった。

 それに美しかった。綺麗な顔立ちをしていて、今まで見た女の子の中で一番美しいと思った。


 そうして三年が過ぎた後、俺は自分が抑えつけられないようになっていた。

 その原因は裕美だった。十六才になった彼女はとても美しく、そして十八歳になった俺はすっかり男になっていた。

 裕美と手と手が触れる瞬間、互いに顔が赤くなった。裕美も俺を意識していた。

 だけど裕美を抱くわけにはいかなかった。だってそうだろう? いくら食料が豊富にある島とはいえ、子供を作るわけにはいかなかった。それに出産は母子ともに負担が掛かることを俺は知っていた。


 でもある日、それは起こってしまった。

 きっかけは単純だった。家として使っていた洞窟で足を滑らせた裕美を俺が支えた。そのとき抱きしめてしまった。

 その瞬間、俺と裕美の理性が無くなり、獣のように交わった。

 実際、獣のようだったのだろう。


 そうやって一年過ごした後、突然裕美は崖から飛び降りてしまった。子供ができたからだと俺は思った。

 俺の目の前で飛び降りた。まるで後を追ってほしいようだった。

 でも俺は後を追うことができなかった。俺は臆病者だった。


 裕美の死体は近くの浜辺にあがった。無表情で何も感情が分からなかった。

 何を思って死んだのか。俺には分からなかった。


 それから六年間、俺は孤独に生きていた。

 裕美のことだけを想って生きていた。

 正直死のうと考えたこともあった。

 でもこの島はただ生きるだけなら生きられた。

 豊富な食料。

 もしかするとここは牢獄なのだと思うようになった。

 だったら何の罪でここに居るのだろう。

 いや、俺は罪を犯していた。

 気がつかないだけで、とっくの昔に犯していたのだ。


 そして六年後、俺は救助された。

 テレビのロケで無人島を使う下見で現れたスタッフに見つけられたのだ。

 まあ、酷い姿だったから、初めは驚かれたな。


 そして俺は日本に帰ってきた。

 両親はあの船で死んでいた。

 残されたのは俺だけだった。

 とっくの昔に成人していた俺は、両親の遺産を使いつつ、高認を取って大学へと進学するつもりだった。


 でも一つだけやらないといけないことがあった。

 裕美の母親に会わないといけなかった。


 俺は裕美の母親を探した。興信所を使ったり、自分で探したりした。

 そしてようやく見つけた。

 意外と俺の家の近くに住んでいた。俺は裕美の母親に会って殴られるつもりだった。

 殺されてもいいと思った。それが俺の罪だと思ったからだ。


 裕美の母親は一人で暮らしていた。貧しい暮らしをしていた。

 俺は裕美の知り合いと名乗って線香を上げさせてほしいと言った。

 裕美の母親はあまり良い顔をしなかったが、俺を家にあげさせてくれた。


 手を合わせて、祈ったあと、俺は全てを告白しようと思った。

 でもその前に裕美の母親が俺に全てを打ち明けた。


 実は裕美は不貞によって生まれた子供らしい。裕美の母親は相手に家庭があることを承知で浮気していたのだ。

 衝撃を覚えた俺はその相手のことを訊いてしまった。


 俺の父親の名前だった。


 裕美は全て知っていたんだ。俺と自分が異母兄妹であることを。


 だから死んでしまったのだ。

 




「全てを語った。これで俺の望みは叶えられるのだろう?」


 私は数奇な運命を辿った兄妹に同情を隠し切れませんでした。

 もしも同じ船に乗っていなければ。

 このような悲劇は起らなかったのでしょう。


「叶えてもいいが、後悔しないか?」


 マスターは厳しい顔で言いました。


「叶えてしまえば、お前は――」

「多分死ぬだろうな。でもそれでいいんだ」


 マスターは溜息を吐いて、そして言いました。


「喫茶店から出れば、望みは叶うだろう。しかし――」

「駄目ですよマスター」


 ウエイトレスは笑顔で言いました。


「あなたは叶えるだけなんです。介入はできませんよ」


 マスターは「分かっている」と言って出口のほうを指差しました。


「さあ行け。望みを叶えてしまえ」

「ありがとう。マスター」


 菊池はそのまま立ち上がり、そして出口から出てきました。


 マスターとウエイトレスが何者なのか。

 私には判然としませんでした。

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