6
トンネルを二つ過ぎて急に、標高が高くなったからか、夏の白昼とは思えぬ涼しさが車内にもじんわり滲むようになって、彼は冷房を弱めた。くねる道路の両側に聳えているのは、山ではなく、岩壁だった。岩々の群れは、進行方向遠くにみえる山の眩い緑を凝視でもするように、静かに黒ずんでいた。
弓子が鼻歌をうたっていた。めずらしく体調がいいのだろう、と彼は思った。彼の知らない歌だった。
「冷房きらへん?」
弓子はたのしげに言った。
「寒いか?」
彼が聞くと、弓子は答えずに冷房をオフにした。そして、軽く笑った。
「勝手に切ったったわ」
「ええよ」
「ふふ、切ったった、やって。虫の名前みたい。キッタッタ、ふふ」
「お前、よっぽど機嫌ええんやな」
「なに、あかんの」
そう言って目を鋭くしたかと思えば、また顔全体が口から笑みの広がるように綻んだ。
不意に弓子が、窓を開けて欲しいと、ねだった。
「なんで」
「クーラー消したら消したで寒いねえ」
開けると、ちょうどぬるい風が、重たく吹き込んだ。岩とその奥に隠されているのであろう樹木と土の匂いを、風は濃密にふくんでいた。
「ほら、開けたら気持ちええねえ」
「ほんまやなあ」
そのまま少し走っていると、一匹の蜂がぶんぶん羽を鳴らしながら車内に迷い込んできた。酔っ払ったみたいに彼の眼前に物凄いスピードで突き進んできた蜂に、彼は慌てて身をのけぞらせた。ハンドルを回すのが遅れた。車がガードレールをぎりぎりにかわす角度で急カーブした。弓子が笑い声をあげた。彼は、笑いを押さえつけるように、ことさら怒りの色を声に忍ばせた。
「おい、早よ、叩き出すか殺すかせえ」
弓子は、まだ笑っていた。
「なんでうちが」
「ハンドル握ってるやんけ」
「停めたらええやんか」
「こんなクソ狭いところで停めれるかよ」
弓子はティッシュ箱を掴んでやたらめったらに振り回した。蜂は怯えたように余計に飛び回ったが、車内を高速で四・五周したかと思うと、出て行った。彼は視線を誘われた。途中までその姿を捉えられたが、すぐに岩壁の黒っぽいなかに溶けた。
また入ってこないように彼は窓を閉めた。古い車だからギイギイと鳴りながら窓ガラスが上がる。その不愉快な音の隙間から湧き出るように、弓子のすすり泣く薄弱な声が、彼の耳に引っかかった。
「この子も、うちらと一緒に、死ななあかんの?」
彼は、弓子の言葉が弓子のものでないように感じられるほどに、ありふれていると思った。
しかし、だからこそ、彼も涙をこらえられなかった。肩が震えた。その震えの細やかな肉の痙攣まで、どこかで見たものの再現のように、いまそのまま想い描けた。怯えまでしながら死ぬ必要がどこにある、と彼は誰かに聞いてみたかった。誰でもよかった。道端ですれ違った見ず知らずの相手でもよかった。そして彼は、答えに窮する相手に、怯えるからこそ死ななあかん、と説教でもするように言い放つ自分までもありありと想像できた。
「しょうがないやろ。そのうち、殺すことなる」
その言葉のことごとく、あるいは涙の流れようも、何万回と目にし、耳にしたものだった。いくつものストーリーにあったものだった。
それを、まるでやさしい母親に強いられでもしているかのように、なぞる彼と弓子がいる、と思った。苛立たしかったが、弓子の泣く声は止まなかった。彼も、弓子の声が耳から骨の奥にまで染みるように突き動かされ続けるのを、どうしようもなかった。
「名前まで、考えた、のに」
弓子がしゃくりをあげた。
岩肌が陽を浴びて一層まがまがしく見えた。
彼は、岩肌をぼうと眺めながら、視界の端の弓子が風船のように膨らんでいくかに見え、涙を拭った。
弓子は弓子のまま、そこにいた。腹に、生き続けてきた体のなかに、彼の植えつけた子がいた。彼はいまさら、感嘆の息をもらした。
弓子は孕んでいる、と思った。
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