2
高速道路に入ったあたりで、弓子は寝入った。普段からよく眠るが、孕んでからは、どれだけ寝ても寝足りぬようだった。シートベルトを外し、彼の腿を枕にしていた。彼は時々、脚がつるように重く、身じろいだ。弓子はそのたびに幼くうなった。
片方には夜の暗がりに沈む山肌が、もう片方には対向車線があった。車は少なかった。光も、音も、とぼしかった。向こうから、あるいは後方から過ぎ去っていく車の進行の、とろりとなめらかなのが、なんとはなしにおそれを誘う。なにか、例えば全く無いがゆえにかえって猛るように張り詰めた風に、後ろから背を吹かれて、いわば他力で実のところ望みもせずに走っている。運転手も、エンジンも、自らではそうと気づかぬうちに、無力になる。
物ことごとくに現実味がなかった。物そのものでなしに、影だけが去来しているにすぎない。アクセルから足を外し、フェンスや、他の車に衝突したとしても、何事もないのではないか。地獄という苦の極致があれば、実際のところこういう、手ごたえのない空虚ではないのか。少ない光と、少ない音と、媚態もなしに誘惑されていつのまにか膨らむスピードとの、整然たる秩序が地獄の本性ではないだろうか。気がつかぬがゆえに狂い、苦は重なり、微笑みに似た絶望が匂う。彼は、弓子の頬から膝につたわりじわじわと身体の奥にまで沁みていくぬくもりに、とろりといささか眠気を誘われるにまかせて、そんな大袈裟なことを思い巡った。どこまで、いつまで走っても、風景は変わらないかに思われた。眠り入る瞬間の、凍えるような冷風が噴き上げる穴へ身を投げるような、無責任の法悦が彼を内側から覆っていた。彼はアクセルを踏み切って、長い睡眠を迎えるように心地よかった。
車は走らせるに任せて、疲れてこくりと首を落とし、ふと目を開いた彼は、はじめて弓子の寝顔をまともに見た。道路の電灯の、黄色っぽい光が、細い直線状に射しこんで、うつっていた。車が進むにつれて消えては射す光の筋のなか、左目と左の口角が、ふうっと浮かびあがっていた。瞼の薄い皮膚に血管が浮かびあがっているがそれも照明の色彩に染まっている。かぎりなく人間に近づけて作られた人形のようだった。それも、悦楽の静まりゆく瞬間を彫刻している……。
無数に反復する光線の侵犯と退却の、ある一回の退却が、なぜか彼の眼差しをとらえて、車線上へと引き戻した。相変わらず車は少なかった。灯りの光の奥に弓子の髪の匂いをかいだ。車が、轟音をたてて走っていた。対向車のヘッドライトや、前の車のライトや、あらゆる光がいちいち眼球を撫でていくように鬱陶しかった。
彼は、熱っぽい緊張にハンドルを握る力を強めて、アクセルから足をほんの少し浮かせた。彼の車は他の車と変わらぬスピードに戻った。どうにも眠たくて後頭部が甘く疼いた。後ろ毛が勝手にふわふわと踊っている心地がした。
雨が降った。
サービスエリアの広大な駐車場の片隅に駐車した。他の車もエンジンを切って佇み、辺りは静まり返っている。かえって、雨がアスファルトやフロントガラスを叩く音が、響いた。エンジンをとめ、冷房が切れると、徐々に蒸してきた。
うつらうつらとようやく彼が寝入りかけた時、弓子がゆっくり眼を開いた。瞼の剥く音を聞くように、その気配が滲んで、彼は弓子を見たのだった。弓子は彼と目を合わせた。
「雨やね」
彼女が寝ぼけたような声で言った。彼は目を閉じて、答えなかった。
車が小さく揺れた。弓子が、椅子に足を上げていた。
「なにしてんの」
「そっち行こ思って」
弓子は、手を伸ばして運転席の奥のレバーを引きシートを倒した。のそのそと彼に跨った。
「なんやねんな」
彼は気が抜けたように言いながら、弓子に熱が疼くのを見てとった。だだっ広い駐車場に点々とあるライトの遠い光だけが揺らめく薄暗い車内で、弓子の唇の赤紫がぽうと浮かんで見えた。それは言葉をもたない、バクテリアのように無愛想に増殖するだけの生き物のようだと、彼は思った。
弓子は、自分の熱情を彼に見抜かれていると知っているかのように、言葉なく彼のジーパンに手をかけた。彼はされるがままだった。
ひどく車が揺れた。
彼は、自分の身体に押し上げるこの快感が、弓子の肉体にもたされるのか、車体の振動によるのか、曖昧だった。孕んでから膨らみを増したような弓子の乳房を、下着の上から掴んで、彼女のかなしそうに悶える顔を見ていた。窓ガラスをおびただしい雨が伝い流麗な模様をつくり、それがライトに照らされて、ゆるやかな蠢きそのまま弓子の肌に映っていた。
これが俺の子を孕んだ女かと、彼はまるで遥か過去を思い出しでもするかのように、呆けた。
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