明ける

しゃくさんしん

 団地群の、一棟一棟が、片頭痛の前触れの視覚錯乱のような白い日の光で、明るんでいた。壁のひびやペンキの剥げが、むざむざと露わになっている。団地がならび、その間を縫うように、狭い歩道と車道があった。他には何もなかった。野本町団地の四丁目五番地・六番地の区画である。ここらのものより倍ほども高い、真新しい棟々が、古いものの向こう側に、いくつか聳えている。昔からあったが、耐震基準の改定で建て替えられたものである。ここらのものも、じきにそうなる。壁の無機質な白っぽい灰色はオレンジに塗られ、誰かが吐いた痰のこびりつく薄暗い階段は消え、かわりにエレベーターまでが付くらしい。

 錆びついた車止めに彼は腰かけて、あたりを見回した。かつていたはずの人も車もなかった。既に建て替えられた区画と違って、ここらは老人が多く、工事のための一時立ち退きを揃って拒んだ。数少ない若者たちはみな市からの見舞金を受け取って他の街へ、あるいは別区画の真新しい団地へと移った。だから四丁目・五丁目に佇むハコの群れは空室だらけで、外から眺めていると、カーテンがかかっていたり洗濯物を干しているベランダはまばらに散らばっている。ほとんどの窓が、薄暗く沈み、あるいは向こう側の青空を四角く切り取っている。幾何学的に窓がいくつも並ぶなかほとんどが空白で点々とだけ生活感の滲む窓がまざる様相は、未完成のパズルに、それもはじめからピースの少ない欠陥品のそれに、よく似て見えた。

 花壇の花は枯れ果てて老人の性器のように萎び、駐輪場の自転車は錆びついていた。静まり返っていた。蝉の声だけが激しく響き、完全な静寂よりもかえって無音である。日の光が、あった。どこも、なにもかも、何気なく漂白されて沈黙している。歩道にぽつんと、鳩の死骸のその残骸か、羽と血らしきものがコンクリートに、付着したというよりはむしろ底から滲み出たように馴染んで、染み付いていた。日の光はそこでひときわ激しく透明になる。小さな一点に静謐が凝る。

 彼は、いつまでもそのように車止めの金属的な冷やかさを尻に味わいながら、陽だまりにいたかった。煙草も、酒も、なかった。なににも逃げられないから、ただぼんやりしているより仕方ないのだった。

 その彼の耳に、クラクションの音がすぐ後ろから響いた。振り返ると、軽バンの狭い運転席から、弓子がこちらを赤の他人のように眺めている。色白の、シミもないのにどことなくけがれた、その顔だけが、浮かんで見えた。彼はその顔をしばらく、見るともなく見て、車に乗り込んだ。

「うるさいやないか、すぐそばでクラクションなんか」

「何回も呼んだのに、気づかんかってんもん」

 弓子はそう言い、欠伸をかみ殺した。

 欠伸は、彼にうつらなかった。しかし微温の眠気に微睡んで、言った。

「こんなとこおったら、気ぬけるなあ」

 弓子は、涙に膨らむ眼を拭った。そのまるい手が、一匹の小さな獣のように、いじらしい。

「犬公園つぶれてたわ」

 と弓子が言った。

「うそやん。やっぱりかあ」

「デイケアか、なんか、なってた」

「安田のオカン、そこで働いてるて。同窓会で誰かから聞いたなあ」

「ふうん。あの、白髪眉毛おばちゃん?」

「それ、なつかしいなあ」

 安田のオカンの太い眉毛は、一部分だけが円状に白くなっていた。彼はかつて、初めてそれを目にして、ひどく恐ろしがった自分を、思い出した。そこにはなにか、たとえば彼の父の友人の、指が一本多い掌のような、世界に馴れ始めた少年の目を背けさせるなにかがあった。しかし恐怖は、友人らと冷やかすうち、いつしか消えた、今では恐怖の名残すらも蘇りはしない。

 彼は醜い眉毛を笑いながら、その一方で、ほんならどこで死ぬ、というなによりも口にしたい言葉を飲みこんだ。

 弓子にもその気配があった。

 彼はポケットからスマホを出した。画面を見るよりも早く、弓子が横から、

「もう交代の時間?」

 と、よほど運転に疲れたのか、浮ついた声で言った。

「まだや。あと十分」

 彼が呆れて笑う。弓子は小さく舌打ちをした。

「もう、ケチ」

「ケチやあるか。お前駄々こねた分、俺が一時間多く運転しとんねん。もう一時間お前が運転せなあかんぐらいや、ほんんまは」

「うち無免許やん」

「関係あるか、そんなもん」

「なあ、どこで死のか」

 彼は、息をつめそうになり、ふっと笑みを絶やさずにおいた。しかし、言葉は出てこなかった。こわばり、ほんの微かに震える弓子の喉が、弱々しい蠢動の手触りが、掌に湧きあがった。どんな答えが返ってくるのか不安なことを聞く時、その動きは起こった。手を置く膝のあたりの、ジーパンの生地が、やけに温もりをふくんでいる。

 重苦しいからこそ鬱陶しい秘密を発作的に暴くのを、弓子らしいと彼は思った。

「そうなあ」

 と、彼は弓子にも自分にもとぼけた、白っぽい声を作った。

「どんなところがええ?」

「うちが聞いてんの」

 弓子の手が、どこか癇性に髪を耳にかけ直した。

 ふと、ある古い団地の、最も高層の五階の部屋に、白いシャツが干してあるのが彼の眼についた。しかし部屋の中に人の気配はなかった。カーテンも、家具もないようで、棟の向こうの空が、窓からなめらかにつづいているように、あった。

 シャツの透き通る白に、青空よりも遥か高いところから飛び降りた者があったか、という想念にとらわれた。その者が偶然にあの部屋を通過した。シャツがベランダの手摺に引っかかり、身から離れ残った。その者だけが落ち、死んだ。

 白いシャツが、風に揺れることなく、静止していた。彼は、一枚のシャツの果てしなく美しいことが、妙に可笑しかった。

「なあ、海とかどう?」

 弓子の声がした。鼓膜よりも内側で響いたような気がした。

「海なあ。まだ寒いぞ」

 彼は、ごまかすようなことを口にしながら、弓子からの問いにつられるようにしてぼうっとシャツを眺めていたのは、答えを探そうとしていたのではなく、むしろなにごとかを忘れようとしていたのではなかったか、と疑った。


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