第4話 妻
後味の悪い支店長との電話を終え、俺は事務所の鍵を閉めると、警備会社のカードキーをセットし、マイカーで家路に就いた。
支店長が金平商事と闇の関係にあるとは思いたくはなかった。この一連の流れは誰もが予測できなかった事故の可能性もある。立花商店も労力のわりには見返りの少ないソース作りに絶望を感じているだろうし、俺だって歩合が大幅に減り、実際手取りに影響を及ぼしている。
「ただいま」
「おかえりなさーい」
「なんだ春樹、起きてたのか?」
玄関に五歳になる一人息子、春樹が駆け寄ってくる。
「早く寝なさい。テレビでも見ていたのか?」
「パパを待ってたんだよ。お風呂一緒に入りたかったから待ってたの。カバン持つよ」
「おいおい、重いよ、無理だ」
「よいしょー、よいしょー」
春樹は引きずるようにして俺のカバンをリビングまで運んだ。その姿は無邪気で愛らしい。
「おかえりなさいあなた。遅かったのね」
「今週は店閉め当番だからな」
「そうだったわね。お疲れ様でした」
妻の目を直視することができないまま食卓に座った。俺は事務所内での小坂とのキスを思い出していた。妻に申し訳ない気持ちが心の中で広がっていく。
「あなた、お話があるの」
「なんだ?」
「今月は先月と一緒の出勤日数でしょ?」
「そうだ」
「なのになんで? 明細を見てびっくりしたわ。前の月と比べてなんで8万円もお給料が下がっているの?」
俺は仕事で疲れていたこともあり、説明する気力を失っていた。
「ずっとこのお給料が続くの? 今年の初めにあなたと二人で決めたじゃない。この家のローンを一年でも早く返して楽になろう、って。あなたが任せておけ、って言うから私、月の返済を5万円から10万円に上げたのよ? 今までのお給料なら問題なかったけど、このお給料が続くのなら家計はやっていけないわ。それにあの銀行には近所の奥さんが勤めているから、また元の5万円の返済に戻したことが知れたら、色々詮索されるかも知れないし、できれば返済額はこのままで」
「やかましい!」
知らない間に俺は怒鳴っていた。それはこっちだって重々承知している。承知しているから色々と奔走しているのだ。それに小坂との不倫を自制してやったのに、という身勝手な恩着せも働いた。
夫婦の間に気まずい空気が流れる。振り返れば春樹が俺のカバンを床に引きずったまま、泣きそうな顔でこちらを見ている。
「飯は後にする。春樹と先に風呂に入る」
妻もやりきれない顔で立ち尽くしていた。順調にここまできた生活の歯車はゆっくりと狂いだしていた。
春樹は俺の顔を伺いながら脱衣所で服を脱ぐ。安心させるために俺は息子の頭を優しく撫でた。
湯船に親子仲良く並んで浸かる。
「お父さん、仕事って大変?」
「大変だよ。会社にはズルしようとする人がいてね、たくさん働いたらお金がたくさんもらえるのに、体が疲れるから嫌だ、って言う人もいるから喧嘩になるんだよ」
「へぇー。会社って働きに行くところだから正しいんだよね、正しいからじゃあお父さんは正義だね。たくさん働くから偉いんだね。正義は勝つ、ってテレビのヒーローが言ってたよ」
「あはは、正義は勝つ、か。春樹もさ、しんどいことには逃げずにぶつかって欲しいな。きっと神様は見てくれていると思うよ」
子供の笑顔は仕事での疲れを癒してくれる。
風呂から上がると、食卓には俺の夕飯が並べられ、妻の姿はリビングになかった。先に二階の寝室へ上がったのだろうか。
少し言い過ぎたかも知れない。だが俺だって手を拱いて見ているだけじゃない。
翌日、店閉め当番を隣のグループ長に頭を下げて『急用ができた』と偽り残りの業務を副グループ長の新見に任せ、昼過ぎに早退した俺はその足で市の中心街にあるマルサン物流の本社ビルへと向かった。
そのビルの中には労働組合の事務所がある。労働組合の委員長には、かつて新人時代に世話になったグループ長、村上が配送員からのし上がって委員長に就任していた。
会社で腹を割って話せるのは、雨の日も風の日も苦楽を共にしてきた村上だけしかいない、と思っていた。
エレベーターに乗り該当の階で降りる。フロアーの奥へと歩を進める。ガラスのパーテーションで区切った一角が労働組合の事務スペースであった。
一番奥の委員長席に村上の姿はなかった。
「あれ? 平山さんじゃない。お疲れ。村上さんに急用?」
軽薄で馴れ馴れしい声が後ろから響いた。振り返ると配送員で同期入社し別支店に異動になっていたはずの船曳の姿があった。
「あれ? 船曳さん、今ここ? 配送員降りたの?」
「定年までのこと考えたら、こっちにシフトしといたほうがいい、と思ってね。今は労働組合の副委員長やってる。ここで実績を上げて、いずれは……、平山さんもこっち来ればいいのに、推薦するよ」
「いや、俺は事務仕事に向いてないから。船曳さんと違って頭悪いし。現場で現物運んでいる方が気が楽なんだよ」
俺は自虐気味に返事をした。
「で、村上委員長は?」
「それがさぁ、急に体調崩されたみたいで、この先の市民病院へ急遽入院ですよ。だから引き継ぎというか、委員長代理みたいなことになって大忙し」
船曳の目には『このまま委員長の座に就けるかもしれない』という喜びが透けて見えた。
「また寄ってよ平山さん。労働環境で困ったことがあったらなんでも相談に乗るよ。もう俺らの世代が会社を回していかないとね」
船曳は意欲に燃えているようであった。やはり俺たちの世代はがむしゃらに働いてきた最後の世代なのかもしれない。
「じゃあ見舞いがてら病院へ行って見ますよ。どうも」
挨拶を交わし、俺は労働組合本部を後にした。
船曳に教えてもらった市民病院は、歩いていける距離にあった。総合受付で村上のフルネームを告げ、見舞いだと告げた。若い事務員が病室を教えてくれた。個室であった。
「失礼します」
ノックして病室に入る。室内はカーテンを含め白で統一されていた。
「おお、誰かと思えば、懐かしいな。誰に聞いてきた」
寝ていたらしく苦しそうに起き上がる。
「本社ビルで船曳さんに。村上さん、どこが悪いんです?」
「船曳か。あいつは本社でちゃんとやっていたか? あいつは返事だけはいいが、軽薄で何を考えているか分からん。情もないしな。給料とは別に出る労働組合費目当てだけできているのかもしれん」
懐かしい部下である俺の顔を見たせいか、かつての上司は饒舌に今の部下の不満をぶちまけた。
「経過はどうなんです?」
「詳しくは知らん。膵臓だかどっかだか。妻が医者から詳しく聞いているはずだ。少し疲れが出ただけだ。早く現場に戻らんといかんのに」
言いながらも村上の顔色は悪かった。俺はガンの可能性を考えた。
「どうした急に。支店で何か問題でもあったか?」
「それがですね」
病室に二人きりだけだったのをいいことに、俺はここまでの経緯を詳しく相談した。
「金の流れも把握したのか? 確認するには支店長のログインコードが必要だが」
「そこは女子事務員に無理矢理頭を下げまして」
「事務員の経理コードを使ったのか? 呆れたやつだ。昔から熱血漢で変わらんな、オマエは」
「村上さんの弟子ですからね」
自然な笑いが起こった。
「しかしな、支店長が金平商事と繋がりがある、とは断言できんぞ。結果そうなった可能性の方が高い。しかし全く無い、とも言い切れない」
「と言いますと?」
「噂だが、怪しい団体とウチを使って利益を掠め取る悪事に加担し、口座を開きリベートを受け取っている者がいる、という話を聞いた」
『支店長だ』俺はそう直感した。金平商事が反社という確証はあるのかね、という白々しいセリフが脳裏に蘇る。
「社内に、それも大きい利幅の商品の把握なら本社の人間なら可能性は誰でもありますね。明細を見て情報を金平商事に流すだけでいい」
「平山、事が大きくなりすぎた。もう手を引け」
「なんでです? 村上さんは労働組合の委員長でしょう? アイツらは毎日、注文をかけるだけで月に140万の利益を荒稼ぎしているんですよ? それは本来、立花商店や俺たちの給料になるべき金です。あんな重たいソースを運んで、配送員の歩合は数円でしょう。こんな馬鹿らしいことってありますか?」
「無い、だが相手が悪い。平山、オマエ、今回のことを嘆願書に書け。そして支店の労働組合の目安箱へ送信しろ。支店長を通すな。揉み消される可能性もある」
「嘆願書はどこへ行くんです?」
「東京の本社に反社対策として警視庁上がりの人材で構成されている通称『マル暴』という組織がある。そこに流れる。この一件は我が社がヤクザの資金源になっているということだ。支店長も通さずマル暴は独自に動く。人事にも関係せんだろう。オマエが支店長から恨まれることもない」
「分かりました」
業務をしながらの調査も限界に来ていた。ヤクザ対策の部署が東京本社にあるのは初耳であった。上役に相談はしてみるものである。
『勝った』
これで今回の一件は大きく舵を切ることだろう。俺は夕暮れに染まる市民病院を後にした。
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