第3話 女性事務員小坂
俺は日々の業務をこなしながら、営業所に入ってくる立花ソースの入荷数をそれとなく観察していた。
立花商店の店主も気まずいのであろう。俺の手から離れてそろそろ1ヶ月になるが、納品する姿を一度も見たことはない。俺が配送に出ている間に営業所へ運び込んでいるのであろう。
入荷ペースは以前より増加していた。これは俺が当初、市内の高級レストランに独占で卸していた契約「味が被るので言い値を飲む代わりに市内の他店には卸さないで欲しい」という約束を破っている可能性が考えられた。
一日置きに無人倉庫へ配送する担当の配送員は、さぞかし歩合が上がったことであろう。
1日の業務が終わり、配送を終えたドライバー達は営業所に長居をせず、明日のために一秒でも早く退社しようとする。居残って話をする配達員はあまりいない。
夜の9時に営業所は閉店となる。店の鍵閉め当番は三人のグループ長が交代で担当していた。
今週は俺の番だ。閉店の30分前には配達員は帰り、店にはグループ長と、電話番と事務をこなす女性事務員と二人きりになるのが常だった。
今日は同年代の既婚者、女性事務員の小坂と二人で決められた閉店時間まで居残りである。もう少し早い閉店でも問題ないくらいに、この時間になると発注依頼も在庫問い合わせの電話も一本も鳴らない。
「小坂さん、ちょっとお願いがあるんだ」
「何? 平山さん」
ショートカットで色白、細身だがそれでも胸元はしっかりと出ている。笑うと細くなる目が可愛らしかった。
お互いに好意を持っているのは、俺の独り合点ではないはずだった。
実際に俺が「お願いがある」と言った時に、彼女は業務上とは思えない表情、キラキラした瞳で俺を見てきたではないか。
なのに俺がパソコンの前に座ると『なんだ、仕事のことか』とでもいうような、少しがっかりした感じが顔に出ていた。
俺は別に家庭に不満があるわけではない。今ここで小坂に手を出したら、ズルズルと深い関係になるのが面倒であり億劫でもあった。タイプの女性で火遊びしてみたい気持ちはあったが、実際に一線を超える勇気はさすがになかった。
「一旦途切れた『立花ソース』の再入荷の経緯を、パソコンで調べて欲しいんだ」
「あぁ、あれね、私もおかしいとは思っていたの」
事務員の小坂はパソコンのキーボードを軽快に叩く。
「出たわ。既に今月も結構な数が出荷されているわ」
「単価はいくらになってる?」
「ちょっと待ってね。ええと、一本400円になっているわ」
「400円!? バカな。あれは立花商店から原価300円の商品を、ウチが1000円で仕入れて、レストランには2000円で卸している商品だ。400円なら立花商店もほとんど利益が残らないし人件費も出ない。それにウチだって倉庫まで搬入しに行くガソリン代も怪しいじゃないか。人件費なんてこっちも確実に浮かない。配達員の歩合なんて一箱卸しても数円じゃないのか? そんな卸値ってあるか?」
「いいえ、間違いないわ。その額で伝票が切られているわ」
「じゃあこの発注先は、注文するだけで一本1600円の利益、一箱14400円……。濡れ手で粟じゃないか。1ヶ月で何箱出ているんだ?」
「おおよそだけど100箱近くね」
「1ヶ月で144万、年間1500万円の利益が発注先に行く、何の苦もなく……」
その年間1500万円の利益は、本来なら俺たちの歩合や、立花商店の人件費に充てられるべき金である。
「立花商店さんも、よくこの額で卸してるわよね、慈善事業じゃないでしょう?」
モニターを見ながら小坂は後ろ髪をかき上げる。そのとき隠れていた首筋に紫色になった充血の跡を見た。
俺は納得のいかない金の流れに静かな怒りを燃やし、どこが発注をかけているのか、要するに利益を右から左へ横取りしているのは誰なのか知りたくなった。でなければやりきれないではないか。
発注先を調べるには経理を任されている事務員が支店長から託されているログインコードが必要になる。
一般の従業員は金の流れがわからないようになっているのだ。彼女を利用するつもりはなかったのだが、何名かいる事務員の中で、個人的にコードを不正使用できる相手といえば、目の前の小坂だけだろう。
「ご主人のDV、ひどいの?」
俺は首のアザを見ながら、彼女の背中越しにマウスを操る小坂の手の上へと優しく重ねた。
小坂はしばらく俯いた後、目をつぶってゆっくりキスを求めてきた。寂しいのだろう。誰もいない事務所の中で、俺たちは濃厚なキスを交わした。普段仕事をしている空間でのキスは、単純に動物的な興奮を引き起こした。
うっとりした目で見つめてくる小坂は、頬を少女のように赤く染めていた。上から見下ろすブレザーの下のカッターシャツは第一ボタンを外しており、その奥にある胸の谷間から、蒸気が立ち上ってくるようであった。
『思っていた以上にいいオンナかもしれない』
俺は衝動を抑えるのに必死であった。それでもなんとか自制して体を離す、小坂は物足りなさそうにしながらも髪を慌てて手で整え、乱れた服のシワを伸ばした。
「個人的に発注先を知りたい。秘密にするから見せてくれないか? 立花ソースは俺が商品開発にも関わった件なんだ」
小坂は無言でログイン画面へと進んだ。二人で秘密を共有するのを楽しんでいるようにも見えた。
「発注先はね、ええと、金平守人商事になってるわ」
「金平守人商事だって? 反社じゃないか!」
車で街を流していれば、自然と金平商事の噂は耳に入る。闇金などで黒い噂のある事務所だ。
「何であんな事務所が食材に絡んでくるんだ?」
「振込先も金平商事名義になっているわ」
「そもそも、こんな価格で決済契約をした営業担当は誰だ?」
「ちょっと待ってね」
小坂は画面のさらに奥へと進む。
「決済は『支店長決済』になっているわよ。特例の問答無用、ってわけね。赤字覚悟で決済印を押したのかしら。もしくはロクに確認もしないで流れ作業でハンコだけ押したとか」
あの時、搬入先の倉庫で見た黒塗りの高級外車で立ち去った、細身の黒スーツのあの男は、金平商事の構成員だったのか。
金平商事は何らかの理由で立花ソースの好調な売れ行きを知り、立花商事に接近したのであろう。
『色んなところから金借りちゃって』
店主の憔悴した顔が思い出された。恐らく立花商事は闇金に手を出し、法外な利息を吹っかけられていたのだろう。返済ペースの繰り上げに気付いた金平商事が、店主を脅して立花ソースの版権を買い取った、といえば聞こえはいいが、要するに立花商店を奴隷のように扱い、原価にわずかな利益だけ与え、利息の代わりに一本二千円で売れる商品の権利を金平商事が管理した、というシナリオではないだろうか。
「平山さんのこと好きだから、これ以上首突っ込まないで」
というのはビジネスの非情さではなく反社に俺を関わらせまい、とする店主の思いやりであったのだ。あとは金平商事との黒い交際を世間に知られ、ソースのブランド力を落としたくない、という店主の思いもあるのだろう。
閉店にはまだ少し時間がある。俺は社内用携帯を事務所の端にあるラックの充電器から取り外した。
「少し支店長と話をする、先に帰ってもいいよ」
「いいわ、私も残る」
小坂は自宅に帰りたくなさそうであった。きっと夫婦仲が上手くいっていないのだろう。
「いや、遅くなるかもしれないから。また今度、ね…」
俺は優しく彼女の髪を撫でた。名残惜しそいうに小坂は手荷物をまとめてタイムカードを押し、微笑みを一つ残して先に事務所を出て行った。
「もしもし、お疲れ様です。平山です」
「どうした、こんな時間に。まさか車両事故か?」
「いえ、違います」
「なんだ、脅かすな。どうしたんだこんな時間に。それはそうと平山、平山グループの売り上げが先月から大幅にダウンしているぞ」
「その件にも関係があります。ウチのグループのドル箱商品だった立花ソースがロストになりました」
「そうか、そのせいでか」
「そしてその翌月、立花ソースが隣のグループの管轄に移り、支店長もご存知かとは思いますが」
俺は言葉を選んで会話を続けた。小坂を使って調べ上げた立花ソースの金の流れ、金平商事が買い取り、その破格の決済に支店長が絡んでいることを俺は知ることができない、ことになっている。
「いや、知らん。決済印は月に何十枚も押すのでな、見るのは結果だけだ。契約先の選定は営業を信頼しきっている」
上手い逃げ口上にも取れる。
「そのソースの搬入でですね、私は仕事柄、対向車や得意先でも車のナンバーが勝手に頭の中に入ります。納入されている倉庫に平日の休み、偶然通りかかりまして田舎担当の隣のグループの配達員とそこ話し込んでいた時、以前通った時に見た金平商事の車が倉庫横に停まっていました。支店長、決済の中に反社が紛れ込んだ可能性がありませんか?」
「その金平商事という会社が、反社という確証はあるのかね」
俺は電話を握りしめたまま愕然とした。ここまで突き抜けて真顔で猿芝居を返されたら、笑いすら込み上げてくる。金平商事がヤクザであることくらい、この街の高校生だって知っている。
「それにその納入された倉庫に、たまたまその金平商事という会社の車が停まっていただけで、それがウチと取引をしている、という証拠にはならんだろう」
どこまで信用していいのか分からなくなった。こっちは支店長が決済印を押したことは知っている。破格値で金平商事の口座へ金が流れていく決済印だ。
まともな責任者なら、あのような額で決済は通さない。支店長が賄賂をもらっているか、金平商事に脅され身の危険を感じ、愛社精神を捨て我が身かわいさに見て見ぬ振りをしているか、そのどちらかによって返答は大きく異なる。
「いいえ、私の推測です。反社に関わることでもあれば、支店長の経歴に傷がつくのではないか? という私の思いからです」
歯の浮くようなゴマスリのセリフを、もう一人の自分が俯瞰で見ながら笑っている。
「いいか、推測でものを言うのはよせ、営業所員の士気にも関わる。それに私もあと半年で栄転が決まっている。お前がつまらん噂を興味本位で流せば、人事に影響が出るやもしれん。冗談でもそんな話題は出すな。まだ誰にも話していないだろうな?」
「はい」
「よし、じゃあそろそろ店を閉めて帰れ」
「お疲れ様です」
俺はオフィスチェアに深々と腰掛けた。残り半年、賄賂を貰いながらいい思いをし、栄転した後はこの街の支店の行く末なぞ野となれ山となれ、といったところか。が、賄賂は現段階ではグレーである。もしかしたら流れ作業で決済印を押した結果かもしれない。後で確認し、反社との契約に青ざめた可能性も考えられる。
「加担しているにせよしていないにせよ、この件を浮上させたくないことに変わりはない、か」
壁の時計が九時を告げた。
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