第3話の5

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 このモールの建っている辺りが昔は那須野が原の南端だった。それは信じられる。地形からいってもまちがいない。しかし、この地で滅んだ九尾族の怨念が凝って、ここに次元の裂け目が出来ている。にわかには、信じられない。

 わたしは耳をすます。

 狼の雄叫びが響いている。確かにこれは!! 狼の雄叫びだ。わたしは立ち上がろうとした。

「横になったほうがよくきこえるわよ」

 カミサンにいわれたとおりにした。大地から軍馬や、ひとびとの相争う気配が伝わってくる。

「これは……? どうなっているのだ」

 わたしにもイメージがなだれこんできた。

 犬飼のものと戦っているのは鎧もつけていない女人ばかりだ。

「まだなの。吸美の援軍はまだ到着しないの」

 悲痛な叫びがとびかっている。

「あのときわたしたちの祖先は、野生の麻の群生地に迷い込んでしまっていたの。わたしの記憶ではそうなっているのよ」

 わたしのイメージはふつうであったら過去を照らすことはない。この土地に残留した怨念のイメージがあまりに強烈すぎる。そして過去に向かう美麻の記憶の確かさが助けとなっている。麻の群生で、麻の強い臭いに嗅覚も方向感も曖昧になっている。先行している九尾族の護衛に駆けつけるどころか麻に惑わされ、臭いに酔い、ごろっと横になってしまう者さえいる。

「だめよ。これは罠よ。はやく玉藻さまに追いつかなければ」

 追いつく。追いつく。わたしの想いは美麻の同族、九尾族の悲劇とシンクロている。

「どうしたの? 学。イメージに酔っているの」

 美麻に肩を揺すられていた。よほどぼんやりとしていたのだろう。美麻が心配して、わたしの顔をのぞきこんでいた。

「洋子さんをもういちど探しにいこう」

「そうね。洋子を助けるためにここまできているのだから、あきらめてはいけない。美麻、おねがい。洋子のために戦って」

「玲加。あなたはこないほうがいいかも」

「どうしてなの美麻。わたしの友だちなのよ。転校生のわたしに初めて声を掛けてくれたの。友だちになってくれたの。洋子を助けにいくのにどうしてわたしがいてはいけないの」

「大麻の臭いがしたの。わたしは麻生家の嫁。裏の大谷石の蔵なんかまだ麻の臭いが残っている。だから、臭いにはなれている。でも玲加が嗅いだら悪酔いするわよ。動けなくなるかもしれない。マタタビに酔った猫みたいに」

「わたし酔ってみたい。大麻の臭いに酔ってみたい」

「そんな無謀なこといわないで。わたしは逃げ出してきたのよ。大麻の臭いにはものすごく強い悪意がふくまれていたの」

「大麻は本来この地方では茎から繊維をとるものだった。臭いに悪意があったというのは確かなのか」

「確かよ。そのあまりの強さにたじたじとなって逃げ出したの」

 わたしたちはモールの方角に歩き出していた。臭いに悪意がある。そんなことはない。臭いには悪意も善意もない。

 大麻は縁起のいい植物だ。お祓いをするときも大麻の精麻でやるではないか。神社の鈴縄も大麻で綯われている。カミサンのことばが気になった。単純に考えれば、敵地にたったひとりでのりこんだのだ。神経が敏感になっていたためなのかもしれない。だがなんとなく気味の悪い発言だった。

「こんどはわたしも一緒に行く」

「あっ。あれ武だよね……」

 玲加が目ざとく見つけた。

 わたしたちは、三度、モールの駐車場まで来ていた。そろそろ閉店になる。車を発進させるひとたちで混みあっていた。車のあいだをすいすいとぬって武は裏口に向かっていた。

 壁に密着してダストシュートの堆積箱があった。武は箱の側面をとんと叩いた。扉のように開いた。

「あんなところに……地下への隠し階段があるのだ」

 武の後を追いかけた。わたしたちも地下への階段を下りだしていた。

「なるほど」

「学……、なに納得しているの」

「玲加。これが麻の臭いだ。いがらっぽいゴミノヨウナ臭いだろう」

「わたしは甘い臭いがするのだと思っていた」

 臭いはドアの下部から洩れていた。

 隙間からは明かりがさしている。

 わたしたちが歩いてきた通路よりも明るいことは確かだ。通路の奥のほうは真っ暗でなにも見えない。

 あまり先へは進みたくない気分だ。人狼でもとびだしてきそうなぶきみな雰囲気だ。それでなくても、さきほどから異次元からふきよせる狼のハウリングには悩まされている。恐怖すらおぼえる。狼のアギトが肉を食らう咀嚼音すら伝わってくる。

 そしてたべられているのはカミサンの同族の女たちだ。

 わたしたちは狼の兇暴な顎に向かって進んでいるような錯覚に総毛立つ。

 ここはたしかに九尾族と人狼の古戦場だ。

 わたしはドアのノブをゆっくりとまわした。

 開ける。

 ムアっとするような干し草の臭い。これは麻の葉の臭いだ。その部屋の空気―麻の臭いを胸いっぱい吸い込んでみた。子供のころから嗅ぎつけた懐かしい臭いだ。先祖代々家業として営んできた「大麻商」とは麻の茎からとった野州麻を商うことだった。いまは絶滅してしまった業種だ。

「玲加は浅く呼吸して」

「わあ、これが麻の葉の臭いなんだ。ステキ」

 部屋の中央に武がたっていた。

「見園さん。さっきの返事をしに来たのかな」

「なにあらたまっているのよ」

 見園と呼びかけられて玲加が照れている。

 武のまわりにはむかしこの場所で死んでいった女たちの怨霊が渦巻いている。

 恨みをのんで死んでいった死霊がここに凝っている。

 その恨みの対象となっている人狼に、交際してくれといわれても、にわかに承諾できない。こういう異常な出会いでなかつたら……けっこう玲加のこのみのタイプかもしれない。

「それより洋子をかえしてよ」

 玲加が迫る。麻の葉の臭いに酔っているので、怖いもの知らずだ。

「たのむ。つきあってくれ」

「だれが、あんたなんかと。洋子をかえして」

「武!! やはり失敗だね。あとは、わたしたちに任せな!!!」

 犬飼のオババが現れた。

 こんどこそ、美麻の擬態ではない。

 ほんものの、犬飼のオババだ

「洋子‼ 洋子を離しなさい」

 オババは洋子を抱えていた。

「どちらか洋子か玲加。うちの武とつきあってあげてくれっけ」

「こんどは泣き落としなの……」

 洋子はなにをされたのかババの腕の中でぐったりとしている。

 九尾族の人狼への怨念が渦巻く部屋にオババが出てきた隣のドアから麻の臭いが流れてくる。

「どうなっているのよ」

 オババの腕には洋子がいる。うっかり攻撃をしかければどうなるかわからない。

美麻はオババと武の戦意を吸い取ろうと目を細めている。

 瞑想にふけっているようにも見える。

「武。洋子を返すようにいってよ。オババを説得できれば、つきあうことかんがえてもいいよ」

「武!! ダマサレルでない。相手は狐の小娘だ。ヒトをタバカル狐だよ」

「あら、あんたたちは……人なの?」

 隣の部屋から作業着の男たちが飛び出してきた。体に麻の臭いが染み込んでいる。乾燥した麻の葉を衣服に付けている者もいる。それですべてが理解できた。

「乾燥大麻を作っていたのか」

 わたしは思わず声にだしてしまっていた。

 美麻がキレタ。JIN-ROHと今風に表記してもジンロウは人狼だ。なにか、でもこの部屋にいる人狼は犬飼のオババいがいは、ローマ字のほうが似合うようだ。

 くやしいがJIN-ROHという表現のほうがリアルだ。太古の遷都を来年は奈良で祝うという。陰陽師の活躍した時代から時が流れすぎた。人狼による九尾族のホロコーストはとうのむかしに風化している。先祖からの記憶がDNAに刻み込まれている。わたしは忘れることができない。怨念が、積年の恨みがこのわたしの細胞のひとつひとつに刻み込まれているのだ。

 オババの害意を吸収した美麻は、その害意に滅ぼされた九尾族の怨念をプラスして敵にたたきつけた。両手の平を前方に突きだしている。オババだけは微動もしない。作業服の男たちは、美麻の念動力で壁にたたきつけられたまま動けないでいる。

 美麻がキレタ。さらなる攻撃に移った。

「若者どうしを結婚させる。なにをタワゴト。わたしはこの土地にある九尾族の悲しみを悔しさを、決して忘れない」

 作業服の男たちが部屋の隅で立ちあかれないでいる。

「美麻。麻の臭いをかいだので昂ぶっているのだ。押さえるんだ」

「いやよ。なんのためにこの化沼に生きてきたの。なんのためにこの化沼を守ってきたの。人狼の侵攻から守るためよ」

「もういい。市民は人狼の侵略にあっているとは気づいていない。来年になったらわたしも一緒に神代寺にいく。あまり無理をしないでこのままでもいいではないか」

「イヤアー」

 美麻の叫びに刺激されたのか。部屋の隅に飛ばされていた作業着の男たちの顔に銀毛が生えてきた。もみあげが毛深いというていどの発毛だが、毛はまさに、狼の剛毛だ。そして見よ。銀色に光っている。

 男たちは這いつくばったままこちらに迫ってくる。起きあがって二足歩行するのが億劫だ。このままのほうが動きやすい。そんな動きで近寄ってくる。作業着のままだから、不気味だ。

「正体を現したわね。玲加!! 油断しないで」

「くるな。くればオババを撃つぞ」

 わたしは美麻と玲加をかばって前にでた。拳銃をかまえた。銀の弾丸で消滅した仲間の情報は徹底いるらしい。それとも銀の臭いを嗅ぎとったのか。

 狼面に獣化したものたちはじりじりと後ずさりする。玲加が洋子にかけよる。オババがそうはさせじと玲加を遮る。

 美麻がオババに両手から気を浴びせる。オババの体が壁までふきとばされた。壁に激突して、バンとはねあがる。床にたたきつけられた。とはいかなかった。虚空でトンボを切り床におりたった。

「やるわね。……やるねぇ」

 とオババ背を伸ばす。ゆっくりと首を一回転している。

 このふたりはわたしなどの知らない昔から魂が争ってきているのだ。

 コンクリートのうちっぱなしの天井や壁面に影が揺らいでいる。古戦場の狼と狐の戦いが入り乱れて映像化されている。九尾族の怨念が広い空間に渦巻いている。

「やるわね。オ狐さん。なんだかチャクラが吸い取られたみたい。これがあんたらのフォースなんだね。体に力がはいらないぞぇ」

「あのとき、わが九尾のものがかけつけるのが今少し早ければ」

「どうかなっていたと思うのかぇ」

 オババは虚空に渦巻く3D映像、那須野が原でバトルを繰り広げる人狼と狐の戦いをみあげながら咆哮した。狐の円陣の中心には黄金九尾の狐がいた。だがわたしには、色白の女人にみえた。もともと狐のアレゴリーを伝説化したのは古人の知恵だろう。

 オババのハウリングに呼応して隣室から作業服のおとこたちがどってなだれ込んできた。

「おおすぎるは!! どうする美麻」

「なんの。やつらの精気は全部すいとってやる」

 古戦場に遅れて着いた失敗をここで一気に挽回する気だ。人狼は襲いかかれないでいる。美麻の顔が青白く透けてくる。

「美麻。むりするな」

 人狼は群れてくる。だが何処かおかしい。人狼はオババのほえ声に呼ばれたわけではなさそうだ。だれかに追われている。と思ったとき、警官と背広の男たちが追いついてきた。

「関東甲信麻薬取締官だ」

「パパ」

 玲加に支えられたていた洋子が大声を上げた。


「歩いて帰らない」と美麻。

「クリツパーはどうするの?」

 と玲加。

「明日とりにくればいいわよね」

 さっさと駐車場を横切りながら、美麻はいらいらした声で学をふりかえる。

「わたしたちの悔しさは誰にもわからない。わたしたちの恨みはわたしたちだけのもの……」

 モノローグのような口調でつづける。

「美麻ありがとう。洋子はぶじにもどった。ありがとう」

 玲加には美麻の悔恨と怨念のよりどころが理解できない。

「でも山本さんが麻薬取締官だとは思わなかったな」

「それよりあそこで大麻を原料とした合成麻薬をつくつていたとはね……」

 美麻はまだ苛立ちを隠しきれないでいる。いままでいた空間での戦闘の喧騒。天井いっぱいにくりひろげられた残虐非道な合戦絵巻からぬけだせないでいるのだ。

「わたしテキにはね、オバサマ。歴史好きな女の子としては玉藻の前の戦いに連座した感じ。またとない経験をしたわ」

 歴女の玲加はうれしさで興奮している。必死に抵抗する九尾族の女たち。

 絶叫。

 すすり泣き。

 人狼の影。

 後ろ足だけは人間のままで女たちに襲いかかるものたちが多かった。狼になりきったもの咆哮。火の粉。槍や刀、松明を手にした都からの追って。まだ玲加の耳には戦場のセメギ合う声がひびきがのこっているのだろう。

「わたしたちユダヤ十岐族がこの極東の小さな島にたどりついたとき、ほとんど武器は使い果たしていた。武器らしい武器はもたなかった。部族のだから最強の武器は色白の美女たちだった。美しく化粧する能力のある女たちだったの……。わたしたちの部族はここを終の棲家とすることにきめたの。ここはシルクロードの終着点。世界の果て。ここに定住したい。それにはこの地の先住民族に女たちをさしだすことしかできなかつた。阿倍晴明が白い狐を母として生まれたという言い伝えがあるわ。玲加しってるでしょう。狐が人間の子供を産むわけないでしょう」

「じゃわたしたちの先祖が……」

「渡来人の女から生まれたということが憚られた時代ですものね」

「帰化人の色白の美女が白狐だったんだ」

「真実をかくすための寓話よ。アレゴリーなのよ。狐は損な役回りなの。人をだます狡猾なものの寓意として洋の東西にかかわらずむかしから記されてきたの。清明の母といわれる葛の葉は『恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉』と詠って身をひくの。まさか玲加、白狐が和歌を詠んだと信じていなかったでしょう。むかしから、わが部族の男たちは女の縁で政界にとりいっていったのよ。女の武器をつかって画策しなくても、十分やって行けるほど大和の国に地盤を確立したの。最後に切り捨てられたのが玉藻の前。鳥羽天皇の寵愛を一身に集めていた彼女を嫉妬する女官の側に、わが部族の男たちが味方してしまった。同族のものに排除された。悲劇よね。

「この黒川がどうして黒川と呼ばれるようになったかしっている。血の色はね、夜の月明りでみると赤ではなく黒く見えるのよ。わたしたち吸美のものがここまできたときにはみんな殺されてしまった後だった。むごたらしい死骸が累々と折り重なっていた」

 先祖の記憶がのこっている美麻。そのためにこそ、怨嗟には深い悲しみがよどんでいた。

「だから……人狼への恨みは忘れられないの。この川を見るたびにおもいだしてしまうのよ。とくにこんやは、人狼とたたかったから」

 呪いのこもった声で美麻は語り続ける。それで歩いてここまで来たのか。

 美麻は闇にむかいあっていた。暗黒に声を飛ばしている。忘れられない恨みをこめて。

「おばさま。家にかえって休みましょう」

 玲加が美麻をうながした。


 過去の恨みは消えることはない。復讐をはたしたとしても、恨みが消えるわけでもない。むしろ、合成麻薬をつくっているほうがわたしには許せなかった。

 麻薬を売って、利益を上げようとする行為が許せなかった。おおくの廃残者をだしてもなお商売をつづけられる。ひとの生き血を吸うと同じことではないか。

 麻薬の販路の絶滅。それはこれから洋子の父、麻取りのひとたちが追いかけるヤマだ。わたしたちは、この化沼の若者を人狼の攻撃や麻薬の誘惑から守ることだ。

 まだ人狼が咆哮し、舌を鳴らしている。戦いはまだはじまつたばかりだ。過去の恨みはそのままにしておいて、これから戦う目的が見えてきた。じぶんたちの町は、じぶんたちで守る。美麻の寂しそうな横顔を見ながらわたしは思ったものだ。


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