1-2 少年と美女

 人類歴二九八年七月一四日 〇五時五七分

 廃棄区画<死ナ川> 旧地下都市部 地上構造物


「――おい、小僧! 動くな!!」

 少し甲高く、それでいてドスの利いた女の声が、陽の光が僅かに差す薄暗い廃ビルに響き渡った。

「――ッ!!」

 不意に背後から声を掛けられた少年は、意志ではなく本能で、その言葉に従わなかった。

 女が言い終わるよりも早く、猫のように素早く斜め前方に身体を飛ばし、前回り受け身を取りながら声の主へと正対した。回りながらも流れるような動作で引き抜いた大口径拳銃――12.7ミリ×55弾が装填された巨大なリボルバーの安全装置は外したが、銃口はまだ指向しない。片膝を付いたままで素早く動ける姿勢ではないが、右手に握る巨大なリボルバーを撃つには困らない。

 少年が女を認識し、女は少年を確認した。

 抜け目なく鋭い視線を向ける黒髪の少年に対し、女は虚を突かれたような表情で呟いた。

「思った以上ね……。確かにこれじゃ、警備兵ガーディアン如きは返り討ちになるわ」

 別に、何か意味があるわけではなかった。ただの独り言。それは説得するわけでも、制止するわけでもなく、自分の思ったことを口にしただけの言の葉。

 そう言いながらも女は少年を確認した。少年は一五歳前後で、身長一七〇半ば程の身長と短めの黒い髪。着込んでいる都市型迷彩服の上からでも分かるほど鍛え上げた筋肉質の身体は、年相応の顔付きと微妙なアンバランスさを醸し出していた。だが目付きは飢えた獣のように鋭く、瞳の奥には危なげな雰囲気しか感じる事が出来ない。

 依頼書の写真と瓜二つ。

 身に付けている装備品は一世代前ほど古い軍用品ばかりで、特に特徴的なのは着込んでいる装甲ベスト。弾納がこれでもかと取り付けられ、身に付けた弾薬だけでも相当な重さになるだろう。

 もっとも、これらは闇市で仕入れた中古品がほとんどのはずだ。

 これも情報通り。

 つまり、少年は女にとっては間違いなく獲物ターゲット

「………………表層に戻ってきたら、これかよ」

 少年は女を視界に収めつつ、その背後にも視線を向けた。確認出来るのは一人だけ。女以外、姿も音も気配も無い。相手は単独行動と判断したが、それはこちらも同じ。

 微かに差し込む陽光に照らされる女を確認する。見たこともない顔で間違いなく顔見知りではないし、ここ数日の間に挨拶を交わしたこともない。

 女の身長は自分と同じ程度――つまり、一七〇センチほど。遠目からでも分かるほどのグラマラスなボディ。活力に溢れた雰囲気を身に纏い、切れ長の瞳が印象的な整った顔立ち。

 誰もが美人と評するしかない黒髪の女。

 だが、少年は警戒を解かない。いや、解けない。魅力的な美女を見ても、本能が拒絶し、経験が確信を与えている。

 廃ビルの中で娼婦のように着崩した鮮やかな色合いの着物を羽織り、帯代わりのピストルベルトで細いくびれを締め上げ、足元を見れば踵の高いハイヒール。太ももを見せ付けるように素足を晒し、胸の谷間も惜しげもなく見せ付けている。それだけでは足りないと言わんばかりに、アクセサリーのように首や手首には拘束具を纏い、男の加虐心を盛大に煽るような姿。

 難民と訳ありの者しか居ない、この死ナ川しながわでそんな格好で出歩くことは娼婦ですらしない。

 そんな美女の右手には、一メートルは優に超える逆柄の大太刀。

 銃を持つ自分に対して、普通の女性なら片手で持てるわけもない大太刀を持ち、正対している。少年にとって、安全装置を解除するには充分すぎる理由。女が観察しているうちにと、ゆっくりと立ち上がった。

 女は静観したままで、ジャグリングでもするかのように右手で大太刀をくるくると器用に回す。

 その異様さに少年は背筋が震えた。

 あれがどのような素材で造られているとしても、刃物として機能する一メートル以上の大太刀の重さは少なく見積もっても一〇キロ以上。それが軽やかに美女の右手の中で踊り、時折思い出したかのように宙を舞う。その場から微動だにしない美女には力みも緊張も見えない。まるで指で鉛筆を回すかのように大太刀が回り、切っ先が廃ビルのコンクリートを事も無げに切り裂きながら舞う。

「ふ~ん。若い割には落ち着いているな」

 数秒間の静寂を破ったのは着物の美女。隙を見せているつもりだったのだろうが、獲物の方はそう思っていない。

 美女は手の中で玩んでいた大太刀を握り、投げ捨てるように床に突き立てた――コンクリートの床がまるで豆腐のように切っ先を吸い込む。そのまま気怠そうに大太刀に背を軽く預け、陶器のように白い手で手招きする。

「来い。遊んでやる。もしも私に勝てたら、お前の精子が尽きるまで、好きなだけ抱かせてやるぞ」

 わざとらしく長くてバランスの良い肉付きの足を交叉させ、太ももまで露わにする。

 己の肢体が異性にどのように見えるのかを知り尽くした仕草。

 美女は妖艶な笑みを浮かべ、少年と視線を絡ませた。

「……」

「安心しろ。お前は何を使ってもいい」

 一撃で半身を吹き飛ばすほどの大口径拳銃を持つ相手に、笑みさえ浮かべて言い放つ。

 暫しの静寂が、数世紀前の廃ビルを満たす。

 緊張感が満ちる空間の中で、先に動いたのは少年だった。

 無言のまま、右親指で大口径拳銃の安全装置を掛けるとそのままホルスターに戻した。

「随分、紳士的だな。そういうの嫌いじゃないよ、男の子」

「…………」

 優しささえ感じさせる声音が美女の唇から漏れたが、少年は無視したまま背負っていた小さめのバックパックと自動小銃を下ろし、弾納だらけのボディアーマーまで脱ぎ捨てた。

「へぇ……」

 美女は僅かに驚き、それから嬉しそうに唇を歪めた。

 それが何に対してなのか、少年は知らないし気にもしない。

 軽く首を回しながら、プロテクターに包まれた両手で拳を作り、右半身になる。

「……これは、使わせてもらう」

 オーソドックスな打撃系の構えを取りながら両手を一際強く握ると、バチッという音ともに数万ボルトの紫電が拳の上に迸った。

 それを見ても、なお、余裕に満ちた笑みを浮かべる美女がゆっくりと大太刀から背を離す。

「一応、確認するよ。式守六三四しきもりむさしだね?」

「ああ。アンタは?」

 覚悟を決めたからだろう。素直に応えた少年は、じりじりと僅かに身体を前後させながら間合いを詰めながら逆に訊いた。

「アット・ファイヴ」

 意外な単語の組み合わせに少年の片眉が上がった。

「コードネームか?」

「いいや。これでも本名さ」

「目的は?」

「今さら何を言ってるんだ? お前の確保以外ないだろう」

「……そうか。分かった」

 あっさりとした会話が終わる。

 もう聞くことも確かめることもない。

 あとは拳で語るのみ。

 それから三分後。

 誰に見られることもなく、二人の戦いは静かに決着した。

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