3-2 回収業者
人類歴二九八年七月一四日 〇九時三八分
東京湾洋上
宮城鈴音が上野から秋葉原へと向かうことを決意した頃――。
彼女が遠くから眺めた、穏やかで赤く濁った東京湾。
その洋上に浮かぶ双胴型回収船<要衝丸>の甲板上では、今日一番の狩りを迎えていた。
回収業者が一日を過ごす、赤潮の如く赤黒く染まった東京湾の洋上は苦痛に満ちた世界だ。
腐敗臭に満ちた潮風に揉まれ、ヘドロのように汚い海の上で行なう作業。
賃金も報酬も水準以上のものが保証されているとはいえ、自ら志願する者も少ない。
排水量三〇〇トンを超える――ちょっとした掃海艇サイズの双胴型回収船の広い甲板上では、週に数回あるかないかの命懸けの戦いが行われる。
今日もそんな日だった。
底引き網でいつものように赤い東京湾の底を攫うと、蟹に似た化物が引っ掛かった。
体長五〇センチ近い蟹もどきは鋼鉄のような鈍色の甲羅、剪定ばさみのように巨大なハサミ、甲羅の上から生えたイソギンチャクを連想させる無数の触手。出来の悪い玩具のような組み合わせには、生物的な統一性も機能性も見当たらない。動いていなければ、その奇妙な生物は鉄から作られた彫刻のようにさえ見えた。
こんな生物が東京湾から発生する理由は唯一つ。
第一次生存戦争時、日本周辺に飛び散ったINVELLの核細胞が原因だった。
この特殊な細胞は有機物無機物を吸収し、時に侵食しながら増殖を繰り返し、やがて様々な機能を持つ器官や臓器へと変化しながら成長を続ける。その過程でINVELLは取り込んだ物質や生物の特徴を有することが多い。
そのために常識を無視した形状を持つ生物――怪物が現れて、何もかも喰らい、人々まで襲う。
だが、この程度の大きさの個体ならば、月を割った666のような能力も強さもない。
ちょっとした猛獣のようなもの。
INVELLの中核となる核細胞も、切り離されれば鉱石のように硬くなり、さらに穴に潜む肉食獣のように捕食の時を待ち続ける。
しかし硬いとはいえ銃弾等でも砕くことは不可能ではなく、一〇〇〇度以上の熱で焼けば一応燃える。成長する前に破壊してしまえば、INVELLであろうと完全に殺すことが出来る。
INVELLとAILの戦いにより、世界中に飛び散ったINVELLの核細胞。
その驚異を取り除くために日夜を問わず働くのが回収業者であり、さらに高度な専門性を持つのが単独戦闘技術者――通称ハンターと呼ばれる者たちだった。
甲板上では、底引き網に引っ掛かった小さな獲物により、怒鳴り声と悲鳴に似た声が響き渡っていた。
「船長! INVELLだ! INVELLが上がった!」
「まだ手を出すな! 早く網を固定するんだ!」
「銃を撃つな! 撃つなよ! 下手すると網が切れる!」
「焼き手、火炎放射器の種火を付けろ!」
引き上げた網から腰を抜かしながら男たちが蜘蛛の子を散らすように逃げたが、狭い甲板上では十分な距離も取れることもなく、大体一〇メートルほどの距離が限界。
男たちは皆、
「網は外すな! ウインチ、そのまま! 各員、距離を取れ!」
「やべぇよ、あれ……ハサミだけで三〇センチ以上だろ」
「そんなことどうでもいいから網を押えろ! 逃げられたら勝てねぇぞ!」
彼らの視線の先には、黒く太い網に押さえられた蟹のようなものがいた。
体長五〇センチ近い蟹もどきは鋼鉄のような鈍色の甲羅、剪定ばさみのように巨大なハサミ、そして百足のような尻尾の終端に巨大な巻き貝が付いた生物。
赤い東京湾から底引き網で引き上げられた生物は合成生物にしか見えない異形。両腕のハサミはザリガニで、胴体は渡り蟹、尻尾は百足で、その終端には巻き貝。出来の悪い玩具のような組み合わせには統一性も機能性も見当たらない。動いていなければその奇妙な生物は鉄から作られた彫刻のようにも見えただろう。
別々に生物の特徴を持つそれは、奇妙なぐらい自然に繋がり、一つの生命の形として存在していた。
それらと対峙する男たちのリーダーであり、船長である鷲尾忠邦は緊張で顔を紅潮させながら大声を張り上げた。
「盾持ち! 前へ!」
「「おう!」」
気合いの入った応答と共に、強化外骨格と呼ばれるパワードスーツの一種に身を包んだ屈強な二人の男が分厚い特殊鋼鉄製の盾を手に一歩前に出た。
「焼き手、火炎放射! 一〇秒前、用意!」
「「準備よし!」」
「撃ち手! 援護用意! 緊急時は各個射撃を許可する!」
「「了解!」」
背中に背負ったポンプから燃料と炎を対象に浴びせて燃やし尽くすという極めてシンプルな武器。その火炎放射器を担いだ焼き手と呼ばれる二人が盾持ちの左右に位置する。さらにその外に二名の散弾銃で武装した撃ち手が配置に就く。
甲殻類のはずの蟹もどき・・・・が、まるでこの先の流れが読めた・・・・・・かのように、鋼鉄繊維入りの網を己の巨大なハサミで断ち切った。
それは、戦いの火蓋を切る合図となるには十分すぎた。
赤い東京湾の洋上に銃声が鳴り響く。
撃ち手と呼ばれる二人の射手からの正確無比な射撃。
敵の動きを止めるために二丁の散弾銃が火を吹き、甲板上に無数の火花が散った。跳弾の危険は誰もが百も承知。それでもINVELLが相手であれば、誰もが現実的でマシな選択だと許容している。
射撃の後は火炎照射器により、水では決して消えることがない炎で異形の生物を焼き殺す――はずだった。
「くそ! 今日のはやたらタフだぞ!」
火炎放射器を持った男が苛立ちと共に喚いた。火炎放射器は常に炎を出し続けるようなものでは無い。一瞬だけ炎と化学燃料を対象物に噴き付け、それを以て燃やすという着火剤のような兵器だ。肝は化学燃料にあり、それは水では消せないし、簡単に洗い流すことも出来ない。火炎放射器により着火すると容易には消せない。ある意味、銃弾よりも確実な、炎を使う兵器。
「駄目だ! こいつ、熱に滅茶苦茶強い個体だぞ!」
「撃ち手、弾種変更! スラッグ弾、射撃用意! コイツの甲羅に穴を開けろ!」
焼き手の声に、鷲尾は新たな指示を下した。
彼は船長であると同時に、この船に乗る者たちの指揮官でもある。
「射撃準備良し!」
弾倉を交換した二人の撃ち手が、散弾銃を構え直す。船上とはいえ照準に狂いはない。この船のバランサーが極めて優れているため揺れらしい揺れはなく、散弾銃に込められた弾はスラッグ弾と呼ばれる貫通力よりも衝撃力を重視した一発の弾丸。無数の弾子を当てるのではなく、一撃必殺を狙っての選択。
「――撃て!」
次の号令は一瞬で下され、撃ち手は逡巡することなく引き金を引いた。
一つの射撃音が雲一つ無い赤い東京湾の洋上で響き、残響が掻き消えていく中、船上に広がったのは赤い血溜まりだった。
「うぎゃああああぁああぁああああ!!!」
悲鳴を上げたのは撃ち手の一人。もう四十代に差し掛かろうとしていた彼は、絶叫を上げながら必死になって残った右手で左腕の止血をしていた。憐れな撃ち手の肘から先が消え去り噴水のように赤い血を撒散らす。音も無く弾丸のように発射された蟹もどきのハサミが、撃ち手の左前腕部を事も無げに切り落とし、さらに着込んでいた防弾チョッキに突き刺さっている。どちらも素早く止血しなければ致命傷となり得るもの。
それでも誰もが目の前の敵を殺すことを優先する。
船長であり指揮官でもある鷲尾も、何一つ動じずに次の号令を下した。
「撃ち手、連射!」
「おう!」
無傷の撃ち手が散弾銃を連射を続ける間も、火炎放射器は拍子を取るように途切れ途切れに炎を浴びせる。連続で放射し続けたら、火炎放射器自体が壊しかねないほどの高温。それでも蟹もどきはまだ燃えない。船の甲板はこの事態を想定して作られているので、焼き手はいつものように獲物を遠慮無く焼き尽くせるはずだった。
「駄目だ! 燃えない!」焼き手の絶叫のような報告。
「盾持ち!
船長は次の一手を打った。
「了解!」
盾持ちが左腕を失った撃ち手とINVELLである蟹もどきの間に割り込む。すかさず
「うぎいぃい! あああぁぁあああああッ!!!」
ただの荷物として運ばれた撃ち手が更なる激痛で絶叫を上げた。
「
報告よりも早く、無傷の撃ち手が弾を込め始める。
その間も、蟹と百足がくっついたような蟹もどきは、大の大人が五人掛かり――しかも、
「また切られたッ!」
「やべぇ! 網が保たねぇぞ!」
「徹甲弾を用意してくれ! 早く!」
男たちが上げる悲鳴と共に、金属が破断する耳障りな高音が鷲尾の耳朶を打った。
炎に包まれた蟹もどきは残るもう一つのハサミで網を切ったのだ。
「――撃ち手、徹甲弾! 指命! 撃てッ!」
焦りで早口になるのを自覚しつつ鷲尾が叫ぶ。
彼は長年の経験で、極めて正しく、この状況を把握していた。
今ここで殺し損ねれば、次こそは死者が出ることを――。
撃ち手が無言のまま
撃ち手の男も経験から、この危険な状況を正しく理解していた。
跳弾の恐れから普通使わない徹甲弾だが、このまま戦いが推移すれば今以上の被害が出る。構えるのももどかしく銃口を敵に向けたが、狙いを示すはずの赤いレーザーポインターは火炎放射器の炎で見えない。通常のアイアンサイトを覗き込む時間も無い。
それでも撃ち手は己の腕を信じて引き金を引いた。
パンという銃声の乾いた音が数発続く。
跳弾特有の風切り音が皆の耳に響き、パキンという甲高い音ともに蟹もどきの甲羅が砕け散った。
「やった!」
誰かが上げた歓喜の声を上げたのも束の間。
蟹もどきは己の死を悟ったのだろうか。
甲羅の砕けたINVELLは最後っ屁のようにハサミを飛ばし、それは恐るべき速度と正確さで、火炎放射器を壊しながら焼き手の腹部に突き刺さった。
悲鳴すら上げられず焼き手は膝から崩れ落ち、そのまま炎に包まれた。
「火が! 火が――ぁあっあああああ!!!」
壊れた火炎放射器から有毒な燃料と炎が周囲に撒散らされ、燃え移った一人が熱さと恐怖で赤い海に転げ落ちる。
「馬鹿野郎! 海に飛び込むな!」
「科学消化剤だ! 早くしろ!」
火炎放射器の炎は水では消えない。炎と共に付着した特殊な燃料がある以上、それが尽きるまで燃え続ける。
そして、その燃料がある以上、誰も助けに入れない。船上から科学消化剤を掛けても、海水が邪魔して碌に消火できない。
「助け! たす、たすけ……たすけてくれ!」
沈みながら燃える男が腕を伸ばして助けを求めたが、救いの手は最期まで届かなかった。
「なんてこった……」
呆然と呟く鷲尾の鼻孔を、人の肉とINVELLが焼けた不快な臭いが満たす。
一分も保たずに、不運な作業員は赤い海の中で焼死し、焼き手の一人は辛うじて人の形を残していたが、同じように焼け死んでいた。
このINVELLとの戦いは五分も掛からなかったが、二名の死者と一名の重傷者を出し、船長である鷲尾は仕事を切り上げることを決めた。
何人もの者が悪態を撒散らし、仲間が死んだことに涙を流す者もいた。
そんな空気の中でも鷲尾は部下に的確な指示を下して遺体を死体袋の中に入れさせると、重傷者はドクターヘリで陸上の病院へと搬送させた。
強化外骨格や筋補助衣を着用し、銃や火炎放射器を使っていても、死者は無くせない。
鷲尾は船長として必要な処置を全て終わらすと、母港へと船の進路を変えた。
こんな日は早々に仕事を切り上げて酒でも飲むに限る。
「慣れないもんだな……」
船の操縦はAIに任せ、鷲尾は青い空を見上げながらぼやいた。
雲一つ無い、爽やかな青い空。
その空の下で、部下が二人も死んだ。
赤い海の洋上はまるで血の池のようにさえ感じる。
二人の尊い犠牲の上に、蟹もどきのINVELLを一匹――ステージ1相当を始末出来た。
死は、致し方ない面もある。
回収業は危険な仕事だ。
今日のようなことはままある。
己が先ほどの命令以上のことが出来たとも思えない。
だからといって、気が楽になるわけでもない。
船長という仕事は、こういう時に嫌になる。
「アイツは運がなかった。そう考えな」
不意に響く声に、鷲尾は声の主を探した。
空を見上げたままの彼に声を掛けたのは、撃ち手と呼ばれる射撃係の一人である神辺だった。
「分かってはいるがやりきれんよ、神辺」
鷲尾は、この船で最も長い付き合い。戦友とでも言うべき仲間に視線を向けた。
「指揮官としては、か」
「船長だからな」
やがて、二人は電子煙草のスイッチを入れた。一本吸う度に自身の保険料が上がっていくが、それでも今は吸いたかった。
「俺たちの仕事はINVELLから人類を守ること。軍人も回収業も、ハンターも大差ない。運がなければ、誰でも死ぬ。死者は
「残された家族にとっては別さ。見えない誰かの為より、自分たちの元に戻って来て欲しいと願っている」
「それは分かるがな……もしかして、お前、あのガキが今も居たらとか考えているのか?」
薄い紫煙を吐き出しながら、神戸は陸へと視線を向けた。その先には東京――それも死ナ川がある。
「ああ。考えた」
鷲尾は素直にその事実を認めた。
「今日のINVELLでも、アイツなら一人で……どうにかしただろうな」
二人の紫煙は潮風が掻き消した。
「それには俺も同意するが、だったら、なぜ単独戦闘技能者待遇で契約更新をしなかった? 真偽不明とはいえ、四日前から死ナ川で、しかも地上でINVELLの目撃情報も流れている上に、今朝は核細胞活性化注意報まで出た。今からでも再契約は出来ないのか?」
神辺の問いに、鷲尾は仕方が無いと首を左右に振った。
「アイツよ……よりにもよって、死ナ川での行方不明者探索と対象生物殲滅の依頼書を持ってきたんだ。あの依頼書を見たら、俺もアイツが契約更新をしないことに文句を言えなかった」
「……それでアイツは、死ナ川に向かったのか?」
神戸としてはそれは初耳だったが、同時に納得も出来た。
廃棄区画でのINVELL遭遇率は東京湾に比べ格段に低いが、遭遇した場合の危険性は比べものにならないほど高い。
だが、その代わりに報酬は数倍に跳ね上がる。
今の日本で一攫千金を求める者は、廃棄区画を始めとする最前線を目指すと言っても過言では無い。
「それが終わったら、そのまま横浜横須賀戦線の掃討戦にもする予定だと言っていたよ。俺も手助けしてやりたかったが……船長やっていると、それほど余裕がなくてな」
「訳ありの案件か……」
それじゃ仕方が無いのか。と、神辺は小さく呟いた。
「さあな……その結果で部下が二人も死んだんじゃ、溜息も出るさ」
後悔を口にした鷲尾は、これ以上息が吸えなくなるほど深く、ただひたすらに深く、紫煙を肺に吸い込んだ。
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