第32話 絶対服従の名
その日の夜、レイさんはロウカさん達の様子を見に行くと言って一人で山を下りてしまった。残ったのは僕とあの方だけで、何とも気まずい空気が流れる。
一度だけ「山小屋の
それからいくらか時間は経ったものの、特に会話もなく、ただ焼け跡の片付けをしたり、時々山中を見回りをしたりしながら淡々と時間だけが過ぎていく。
もう一度会えたら話したいこと、聞きたいことがたくさんあった。次に会えたときに何を言おうか、ずっと、ずっと考えていた。だけど、いざこうしてこの方を目の前にして、僕には価値がないと面と向かって言われて――僕はこれからどうすれば良いのか分からなくなってしまった。
そもそも僕がこの方の前でこうしていることすら烏滸がましいのではないかと、そんな不安が胸の内をもやもやと侵食していく。本当は今すぐにでも目の前から消えた方が良いのかもしれない。でも、だけど、それでも僕はここに居たかった。
ずっと会いたかった。ずっとずっと憧れてきた。ずっとこの時を待っていた。
たとえ理想と現実が違ったとしても、それを理由にこの方を嫌いになるなんてことはまず有り得ないし、この方に受けた恩が消えてなくなるわけでもない。ただそれを事実として、受け入れればそれで良いわけで――……
「うぅっ……」
また目頭が熱くなって、視界が滲んでくる。これ以上みっともない姿を見せるわけにはいかないのに、これ以上幻滅されたくないのに、感情は次から次に目から溢れ出して留まることを知らない。
「どうした?」
僕のあまりの不甲斐なさに、驚いた様子で声を掛けてくれる。その優しさが胸に痛くて、もっと要らないと思われてしまうんじゃないかと怖くって――不安は更なる不安を呼ぶ。
はぁ――と聞こえてきた溜め息は、きっと僕に対する呆れの現れなんだと、そう思えて仕方がない。もしもこのままどこかへ行ってしまえと言われたらどうしよう? もしもこのままどこかへ行かれてしまったらどうしよう? そんな考えが頭から離れない。けれど、次に聞こえてきた言葉はとても意外な言葉で――
「私も言い方が悪かった」
「え……?」
「あれでは伝えたいことは何も伝わらないだろうと、あの男にそう言われた」
「あの、あの……えっと……」
驚きのあまり、涙がぴたりと止まる。目元や頬についた塩の跡をごしごしと拭きながら、なんと伝えるべきなのか言うべき言葉を探す。けれど僕が言葉を探しているうちに、話はどんどん進んで行ってしまった。
「私は、そなたに何かを期待していたわけではないし、ましてやそなたに従僕になって欲しいわけでもない。私が望んでいるのはあくまでも契約関係であり、それは対等なものだ。分かるな?」
「……はい。……でも、でも僕は――」
僕は――何なんだろうか? 言葉の続きが出てこない。僕はどうしたいと思っているのだろう。僕はこの方に何を望んでいるのだろう?
「以前にも言ったが、私がそなたに望んでいるのはただ
そう、たとえ誰に認めてもらえなくても、たとえ世界から必要とされなくても、それでも僕は生きていたい。世界中の最後の一人になったって、僕が満足したと思えるそのときまで、僕はずっと生き続けていたい。
でも、じゃあ何で僕は生きていたいんだろう?
昨夜レイさんが言っていた言葉がふと頭を過る。魔族は自分の欲望と相手の欲望が合致したときにだけ契約をする。つまり、この方も生き続けたいと、そう思っているんだ。
そしてその根底にあるものが近ければ近いほど良いのだと、そうも言っていた。
じゃあ、僕のこの望みの根底にあるものは? 僕はどうして生きたいの?
幸せになりたいから? ――違う。だって僕は幸せな日々を送っていたじゃないか。修道院で過ごした日々は絶対に幸せだったと、昨日そう結論は出た筈だ。だけどそれじゃあダメだった。それで「だから死んでも構わない」とは僕はならない。
じゃあ、誰かに追われることなく、誰かに奪われることのない自由を手に入れたいから? そのために最後の一人になるまで生きたいの? ――それも違う。だったら最初からこんなところに留まらず、もっと遠くの、誰も知らない場所で好き勝手やれば良いんだ。それでも僕がこんな危険と隣合わせの場所で生きることを選んだのは、僕は自由を求めているわけではないからだ。
そもそも自由であることが必ずしも幸福であるとは限らない。自由なんて、束縛よりもやることがない。
僕が、僕が生きたい理由。それは――……
「僕は……僕は、誰かに愛して欲しかったんです。一度で良いから、死ぬ前に誰かに愛して欲しかった……」
生まれてすぐに捨てられて、育ててくれた人には売られて、売られた先で虐げられて、最後には国に命を丸々搾取されて……そんな、何もない人生で終わりたくなかった。
いつか、誰かに、一度で良いから、ただ僕は必要とされたかったのだ。僕という個人の存在を必要としてくれるその誰かがきっとどこかにいると、そう信じて――ただその時のために生き続けてきた。
だから嬉しかった。あの時、僕を見つけてくれた存在があったことが、それだけが救いだった。
「貴方が僕を見つけてくれたとき、願いは叶ったと、そう思ったんです。だけど……だけどそれじゃ満足できなくて……」
「あぁ、だろうな」
「そうしたら、もっと、もっとって……もっと必要とされたくて、もっと生きていたくて、僕を必要としてくれる人がいる限り、生き続けたくて……」
僕の生きたいは、結局のところ
「僕は、片付けが下手なんです……。だから、いつかきっと必要になる時は来るだろうって――そう思って、僕は僕というゴミをいつまでも捨てることができないんです……」
「なるほど、それはよいことを聞いた」
きっと呆れられてしまうと、そう思っていた僕の耳に届いたのはとても嬉しそうで、満足げな声だった。
「やはり私の目は正しかったな。それがどんな理由であれ、どこでまでも貪欲に生を求め続ける。立派なことではないか」
笑っていた。とても綺麗な微笑がそこにはあった。そう、その笑顔はあの日あの時、あの戦場で見たあの笑顔だ。燦然と輝く星のような目も眩むような煌めきが、ずっと欲しかったその光が、こんなにもすぐ近くにある。
「そも、ただ生きるために生きること――それが許されないというのなら、全ての命は等しく無価値だ。己の命に価値などないことを知りながら、それでもなおその生にしがみつくその命にこそ価値は宿る。あくまで持論だがな」
やや骨張った、形の良い手が僕の頬に触れる。ひんやりとした感触は不思議と温かく感じて……間違いなくあの時、この指が僕の頬に触れたのだと確信する。
「さて、フェイト。本来ならばリラを助けてからにしようと思ったのが……気が変わった。今ここでそなたの意思を確認しよう。そなたは生きるために生き続けることができるか? そのために必要なものは全て私が与えてやる。私のために生を渇望し続けることができるか?」
あぁ、これが契約なのか――と未だ実感が湧かないままに、その空気に身を委ねる。実際、僕にそれほどの生きる気力があるのかなんて分からない。だけどこの方が必要として下さるのなら、きっとそれも不可能ではない。確証はないけど、不思議と自信は満ち溢れてくる。
「はい。貴方が僕を必要として下さる限り、僕はあなたのために生を望み続けます」
「我が名はルイン・ルシフェルト=パイモーン・サタノフ。
「フェイト・オーベディエンテ……」
初めての僕だけの姓――僕だけのための、意味のある
「あぁ。その名の通り、私の命令は絶対だ。そしてその名を以て私が命ずることはただ一つ。生きて、生きて、生き続けよ。死にたいなどと死んでも思うな。よいな?」
「……はい!」
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