第23話 母の腕の如き――

 気持ち悪い。

 何が? 誰が?


 ――私自身が、だ。


 あの少女の言葉を聞いたとき、一瞬でも期待したその精神に虫唾が走る。

 あの娘にはもう会えない――否、もう会わないと心に誓った筈だ。私の存在が彼女を苦しめるのなら、もう二度とその前に姿を現すまいと、そう決めたにも拘わらずこんなにも未練がましい想いを心に抱いている。

 もしも偶然にでも出会えるのなら、会って幸せになれたかどうかを確かめたい。そんな浅はかな願望を抱いている自分自身に幻滅する。

 私に、彼女の幸せを願う権利などない。私は保身のために変わらない道を選んだのだ。その選択があの娘にとって苦痛と絶望以外の何ものも与えないと知りながら、それでも私は、私自身がただ生きるためだけにその選択をした。

 そのことを後悔してはいない。しかし、だからといってそれが正しいことだとも思わない。生きるためには仕方なかったなどと言うつもりもない。だが、たとえそうだとしても、せり上がってくるこの嘔気を抑えることもできない。


 腹の中で五臓六腑の全てがない交ぜにされているかのような激しい吐き気に苛まれながら、覚束ない足取りで一歩、また一歩と元来た道を戻る。

 昨日はあれほど美しく見えた人間界の光が、今はとても痛い。それはまるで浄化の光とでも言うような。それはまるで私の存在そのものが罪穢れであるとでも言うような。朝の清々しい陽光が、肌を、心を、存在自体を、全て焼き尽くすかのように突き刺さる。


 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!


 その卑しき精神に肉体が拒絶反応を示している。この穢れた身体よりも私の魂は更に穢れを孕んでいるのか。

 今にも口から飛び出しそうな心臓を必死に抑え込み、平静を取り戻そうと深く息を吸う。しかし清涼な空気が体に入り込む度、まるで針のように気道を、食道を、肺を、胃を、内側からちくちくと刺し貫く。

 濁流を棲家とする魚が清流では生きられないように、私もまた清らかな地に長く留まることはできないのだろう。

 目の前に見える修道院を前に、その一歩を踏み出すことができない。建物の前の広場に入るほんの一歩手前の細道――そこが、今の私がなんとか近づけるギリギリの距離だ。そこにまるで空気の膜が存在するかのように、その空間は私の存在を拒絶する。

 いや、気のせいだ。

 無理にでも踏み込もうと思えば簡単に入れるのだ。だが、それがどうしてもできなかった。


 近くの木に寄り掛かり、腰を落とす。このまま魔界に還ることもできないわけではない。しかし、それは私のプライドが許さない。

 では、やはりあそこに戻るのか? それが許されるのだろうか――今の私に。

 木の葉の陰から既に明るくなった空を仰ぐ。陽は完全に昇り、修道院の内部からも忙しそうな声や物音が聞こえている。

 還るのか、戻るのか。世話になった彼女たちに何も告げずに居なくなるのはあまりにも無礼だ。だが、私の穢れがあの清らかな乙女たちの毒となるのではないかと、そう考えずには居られない。


 頭の中に黒い渦が巻く。今、私がすべきことは何だ? 私は何をしに此処に来た? 他人のことなど考えるべきではない? 他者を踏み躙ってでも自分の為すべきを為せ? そうして一番大切なものを失ったのは何処の誰だ? お前だ。

 そうだ――私だ。


 背後から清らかな光が近づいてくる。あまりにも清廉なその輝きは、決して私に触れられるものではなく――

「ルインさん……? このようなところで一体――」

「私に触るな‼」

「きゃっ!」

 伸ばされた救いの手に対して咄嗟に口から飛び出たのは、この上ない拒絶の言葉であった。

「ご、ごめんなさい……その、お顔色が優れないようでしたので……その……いえ、殿方に馴れ馴れしく触れるなど、わたくしも、軽率で……」

「いや、違う! そうではない、そうではないのだ……」

 言葉を選び、平静を装ってはいるが、明らかに彼女――リラは動揺していた。あぁ、違う、違う、そうではない――私は貴女を傷付けたいわけではない。

「すまない、その、そなたが悪いわけではない……」

 しかし何と弁明すればよいのか。ここで何を言ってもただの言い訳に過ぎぬ。私が彼女を拒絶したというその事実は決して覆らない。

 動揺の陰に見える怯えの気配に罪悪感が芽生える。触れずともこんなにも蔭りを落としてしまうのに、もし触れてしまったら――

「そなたがあまりにも美しくて、眩しくて……私に触れては、そなたが穢れてしまうと――……」

 なんと聞き苦しい言葉だろう。何より、悪いわけではないなどとうそぶきながら、結局彼女に理由を押し付けている。あまりにも浅ましく、あまりにも卑怯だ。

 これ以上どのような言葉を紡いだところで意味がない。言葉とは飾れば飾るだけ虚飾へと堕ちるものだ。もはや私が発するべき言葉など何もない。言葉も半ばに口を噤み、彼女から視線を逸らす。


 他者にどのように思われようと知ったことではない――それが私の生き方だ。それは今も昔も変わらない。

 しかし何故、彼女を失望させたかもしれないと思うと胸の奥が痛むのか。ほんの昨日出会ったばかりのこの女性に、私は一体何を求めているというのだ。

 柔らかな地面の上で、乾いた落ち葉が音を立てて砕けた。軽やかなその音が一歩、また一歩と近づいて来る度、身体が硬直する。彼女は今、どんな顔をしているのだろう。怒りか、哀しみか、それとも呆れか。

 怖いだなんてそんな子供じみたことを言うつもりはない。しかしどうしても彼女の顔を直視できなかった。

 彼女の気配をすぐ近くに感じたとほぼ同時に足音は鳴り止んだ。そして次の瞬間――私の左手をしっとりと温かな感触が包み込んだ。

「大丈夫ですよ」

 やめてくれ、離して欲しい、振りほどきたい、触らないで――……そんな上辺だけの拒絶の気持ちを凌駕するだけの安心感がそこにはあった。

「大丈夫。ヒトはそう簡単に穢れたりなどいたしませんわ。それに――」

 言いながら、彼女は私の手をその胸元へと導く。彼女の手を通して、柔らかな感触が伝わってきた。

「この手はこんなにも綺麗ではありませんか」

「違う、違う……! 私は、私の手は……私の身体は……!」

「主は、全てをお赦し下さいます。この世の遍く全てを受け入れて下さいます。あなた様がどのような過去を持っていようとも、それを罪穢れなどと言って拒絶することなど有り得ないのです。それが主の意思たれば、わたくしもまた同じくあなた様の全てを受け入れますわ」

 彼女は微笑む。清らなるその微笑は柔らかな朝陽に包まれこの世のものとは思えぬ神性を宿す。

 あぁ、そうか、私は彼女が苦手だったのではない。私は、彼女が――……。

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