第21話 始祖の妄執
修道院はその外観に違わぬ風通しの良さであり、夜が深まるほどに屋内の気温も急降下していく。こんな夜中に誰が口笛など吹いているのだと思えば、それは大概隙間を抜ける風の音だ。
それにしても運が良かった。順調に行きすぎている気がしないでもないが、下手に難航するよりは余程マシというやつだ。明日、リラに件の子供がいつ帰って来るのかを聞き……場合によっては幾日か此処に留まらせて貰うことも視野に入れるべきか。仮にそれがひと月も先となるとまた話は変わってくるのだが、数日程度であれば労働力を対価に何とか交渉することも可能だろう。
「フェイト……信仰の子、か……」
この間会った
寝返りを打てば、寝台だか床だかからなんとも不穏な鳴き声が聞こえてくる。随分と賑やかな夜だ。しかし、それでもやはり不快さはない。それらが耳障りで眠れないということもない。――もっとも、普段から深い眠りに就く方が難しいのだが、それはまた別の話だ。
遠くで鳴り響く
***
纏わりつくような湿った薄暗闇の中、夜空の輝きを映す海面が揺れた。海面は波打ち、大粒の雫をその淵に溜める。あぁ、違う。これは海ではない。これは海水ではないのだ。涙だ。これは、彼女の涙だ。
雫は止め処なく溢れ、滑らかな珠玉の頬を滝のように流れ落ちる。
「お兄様、もう
一糸纏わぬその肢体に施された数多くの紅や紫、或いは青の花弁は、時折その周囲を薄黄へと変色させ、彼女の生白い膚を美しく穢し尽くす。それは本能によって咲く花だ。彼女の身体に染みついた幾人もの雄の欲望そのものと言ってもいい。
「止められるものなら、とっくに止めている……」
これは義務だ。我らの業だ。始祖の血に流れる呪いだ。主の魂を繋ぎ止めようと、それに足り得る器を作ることに無心したリリスの執念そのものだ。
より強き肉体を、より完璧な生命を――……その妄執こそが、連綿と受け継がれた我が一族の存在意義だ。
始祖リリス。魔族の母。彼女は真にこのような愛も憎も区別のない混沌とした世界を望んでいたのか。分からない。分かりはしない。
「嫌だ、嫌、嫌よ……」
「このまま孕みたいのか? 我慢しろ。すぐに終わらせる」
しかし、今ここで、その歴史に終止符を打つわけにはいかない。今はまだ、止めるわけにはいかないのだ。少なくとも
泣きじゃくり、全身で拒絶の意を示す彼女の胎から一粒の命を取り出す。
「…………きっとその子も、死んでしまうのね……」
投げ出された四肢は力なく寝台に埋もれる。虚ろな瞳に未だヒトならざる我が子を認め、彼女はぽつりとそう呟いた。
「あぁ、死ぬな」
それが定めだ。私がそうであったように。彼
「どうせ殺す命なら、作る必要なんて――……」
***
最悪な寝覚めだった。
外には未だ暗がりが広がっており、朝と呼ぶには早い時間であることが分かる。あれからどれくらい時間が経ったのだろうか。どの程度、私は寝てしまったのだろうか。
臓腑から込み上げてくる粘液を飲み下し、深呼吸をする。身を切るような冷たい空気が気道を通り抜けていくのが、今は寧ろ心地良かった。
あれは夢だ。だが、夢ではない。現実だ。確かに私が彼女にしてきたことだ。その事実から目を逸らすべきではない。分かっている。私が被害者のように振る舞うことが許されないことも、重々理解している。
しかし、ときに感情というものは思考の外側へと飛び出す。そして肉体というものは思考よりも感情を優先するものだ。「それは許されないことだ」とどれだけ自身に言い聞かせても、一度昂ぶった感情はそう簡単に鎮まってはくれなかった。
「私も、まだまだ未熟だな……」
今から再び眠りに就く気には到底なれず、しかし光源すらないこの部屋ではそれ以外に出来ることもない。部屋から出れば他の者を起こしてしまうかもしれないが、幸いにしてここは二階だ。窓から飛び降りることは容易い。
立てつけの悪い窓にそっと手を掛け、開くかどうかを確認する。多少、錆びた鉄の音が鳴りはするようだが、許容範囲だ。窓の桟に足を掛け、周囲に誰もヒトが居ないことを確認する。そして風が鳴り止んだ一瞬を狙って、窓から身を投げた。
昼間はヒトが多かったためにあまり気にしなかったが、この修道院は一応は山の嶺に建っているらしい。裏手は崖のような急な下り坂になっているようだが、表はそのまま嶺の一本道が続いている。ここは山の中でも最も低い位置にある嶺のようで、なだらかではあるものの、続く道は上り坂だ。
この時間帯に冷たい風が吹き荒ぶのは、より高い場所から冷たい風が降りてくるからだろうか。
どうせ暫くは誰も起きては来ない筈だ――と、あの猪の残骸をもう一度見に行くことにする。陽が昇る前に戻れば問題はないはずだ。
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