第20話 天使族たる証
違和感が近づいてきたのは、それからすぐのことだった。
扉が三度ノックされ、「失礼します」と少年のような――しかしどこか少女のような――若い声が鼓膜を叩く。
先ほど外で感じ取った気配に違いない。それは、人間の持つ
考えることは諦め、早々に相手に一言だけの返事をする。
ギィギィと賑やかな音を立てながら開かれた扉の先にあったのは――
「替えのお召し物を、お持ちしました」
何とも中性的な――私もヒトのことを言えた義理ではないが――天使だった者の姿だった。
自身が着ているものを脱ぎ、手渡されたシャツに腕を通す。脱いだものは部屋の隅で待っている彼に渡し、私は再び椅子に腰かける。
「……貴様、天使族だな? 翼はどうした?」
部屋から出ようとする彼にそう声を掛ければ、彼はビクリと肩を跳ねさせ、恐る恐るこちらを振り向いた。
「やっぱり、分かり……ますよね?」
一瞬、魚のように口をパクパクと動かしたあと、意を決したようにそんな言葉を口にする。その顔には怯えの色が濃く現れ、さながら猛獣を前にした兎とでも言ったところだろう。別に取って喰ったりするつもりはないわけだが。
「あぁ、分かる」
何せ源流が同じなのだ。自身とあまりにも違い過ぎるものもよく分かるものだが、根本的に似ている存在というのはより分かりやすい。翼を失ったが故か天使としての力の大半を失っており、遠くからでは正体が掴めなかったものの、こうして近付けばよく分かる。
何よりも、その容姿だ。ここまで男とも女ともつかない存在など、天使かそれを源流とする魔族の中の更に一部にしかいない。
天使の性別は男と女で別たれるものではなく、両性具有か無性別で別けられる。両性具有の者は男女いずれかの特徴を色濃く反映することもあるが、
だが、天使が翼を喪うなど異常なことだ。天使族の天使族たる所以はその翼にこそある。それを喪っては、治癒を始めとする法力を他者に施すことすらできないではないか。
「自身の傷すら治せないほど、落ちぶれているとは……天使が聞いて呆れる」
彼が入ってきた瞬間に充満した血の臭い――いや、それよりももっと酷い
本来、神族と天使族は自他共に対する治癒力に最も長けている種族だ。どれだけの深手を負ったとしても、数時間もすれば跡形もなく消えてなくなる。魔族にもそういった能力を持つ者は少なくないが、それはあくまでも本人の能力であって、魔族そのものの能力ではない。
何より、彼らの治癒能力は単なる回復ではなく、一種の浄化の能力でもある。
つまり、有り得ないのだ。天使がこのように血の穢れを発することなど。
「そう、ですよね……でも、ボクは……」
何かを言おうとして言い淀む。天使にはあるまじきその悲痛な表情は、悔恨か、屈辱か、或いはもっと別の感情によるものなのか。
いずれにしてもそれが全てを物語っている。やはり彼は既に天使であることをやめた存在だ。ならば、これ以上問い詰める必要もないだろう。
「いや、いい。私も口が過ぎたな。忘れてくれとは言わん。だがこれ以上言及するつもりもない。気にするな」
「いえ、あの、その……すみません……」
「……? 何を謝る必要がある? 無礼を働いたのは私なのだから、貴様が謝る必要は皆無であろう?」
「あの、あの……はい、有難うございます……。えっと、それじゃあ、失礼します」
律儀に何度も何度も頭を下げながら部屋を後にする。直後にパタパタとした足音と、ギシギシと軋む木の音が廊下に響き渡っていた。
しかし、それにしても――あの様子では魔獣を仕留めることはまず不可能だと思って良いだろう。もしも彼が普通の天使であれば、それも不可能だったとは思わない。だが、法力を失った天使にそれができるかといえば、答えは否だ。
法力のない天使など人間と同等、或いは寿命が長いだけでそれ以下ということも十分に有り得る。とすると、この修道院での情報収集にはあまり期待しない方がよいのかもしれぬ。
とはいえ、未だ何ひとつ聞いてすらいない。結論を出すのは早計だ。まずはリラやその他の者たちに聞いてみるべきなのだろう。
窓から差し込む光は鮮やかな赤橙へとその色を変えていた。どこからともなく漂ってくる食欲を刺激する匂いに、時間の流れと共に、穏やかな人間の営みというものを実感した。
***
その話を聞いたのは、夕食が済んで暫くしてからのことだった。
なんだかんだと時間が過ぎ、何かと理由をつけては引き止められ、流されるままに一晩をここで過ごすことになったのは、ある意味で僥倖と言えるかもしれない。
リラやブロシアを始めとする幾人かの修道女に黒い猪や白い毛をもつヒトか獣の話を聞いてはみたものの、めぼしい情報を得ることはできなかった。
結局ここに来たのは無駄足だったな――と、明日以降の行動について考えていたとき、宛がわれた部屋の扉が叩かれたのだ。そこに立っていたのはミスラと名乗る、先程の天使だった。
話がある、という彼を部屋に招き入れ、私は寝台に、彼は椅子に腰かける。対面するというよりは斜向かいといった形ではあるが、この部屋で座れるものはその程度しかないのだから致し方あるまい。
一体どんな話を持ってきてくれたのか――暫くの沈黙を守った後、彼は慎重に言葉を選ぶように、一言一言ぽつぽつとその話をしたのだった。
「その……今日は、出ていていないんですけど、この修道院にあと三人、ヒトがいるんです。一人は院長、もう一人は成人した女のヒトで、それともう一人、えっと……男の子が」
何とも要領を得ない話し方ではあるものの、彼にとってはこれが精いっぱいなのだろう。相変わらず怯えた目をしながらどことなく震える声で話す姿は、まるで私が彼を尋問しているかのようだ。
「その男の子――フェイトって子なんですけど、その子が、猪に襲われたっていう話をしてて……ライラさん達には詳しい事情までは話してなかったみたいで……」
「成る程な……わざわざそれを話しに来たのか。礼を言おう。しかし、そうか……では、猪を屠ったのはその者、ということか?」
「いえ、それが、その……白い狼に助けてもらったって、言ってて……多分、多分なんですけど、神獣、だと思うんです」
「白い狼……それは、確かに辻褄が合っているが……斯様なところにそんな都合よく神獣がいるものなのか?」
何か言葉を探すかのように視線を逸らすミスラから、私もそっと視線を外す。根拠がないのならそれはそれで構わないのだが、懸命に何かを考えている様子であるからもう少し待った方が良いのだろう。
「ごめんなさい……何で神獣が居たのかは、ボクには分かりません。だけど、ボクも天使の端くれです。神気の有無くらいは分かります。確かにこの山に、以前は無かった神気の、その、残滓のようなものがあるんです」
「ふむ、天使のお墨付きか。それは心強いな」
「あ、えっと、ごめんなさい」
別に皮肉で言ったわけではないのだが。慌てて謝罪の言葉を述べるミスラを一瞥しつつ、もはや何度目かも分からない溜め息が漏れ出た。
「ところで、そのフェイトとやらはいつ頃帰って来るのだろうか?」
「それはボクには……えっと、ライラさんなら、少しは分かる……かも? しれません?」
先ほどの言葉とは対照的に、随分と自信のない曖昧な返答が返って来る。まぁ、知らないものは知らないのだから仕方がない。そこを責めるのはお門違いというやつだ。
「では、明日リラに聞いてみよう。ミスラとやら、わざわざご苦労だったな」
「いえ、いえ!」
そう言って懸命に頭を左右に振るミスラはやはりどこか畏まっている様子で、やはり捕食前の兎のようだった。それは兎も角として、だ。
「情報を貰ったからには対価が必要だな。とはいえ、私は今そなたに渡せるようなものを持っていない、残念ながら」
「とんでもないです! 別にお礼が欲しいわけじゃ……」
「分かっている。だが、与えられた恩に礼をするのは当然だ、とリラも言っていた。そうだな……そなたのその呪いのような傷を治してやれたら、とも思うのだが――生憎、私にそなたを治癒することはできない。妹ならば、それも可能だったのだろうが……」
「妹さん……ですか?」
「あぁ。もっとも、私は彼女が今どこに居るのかすら知ることはできないのだが――……」
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