第19話 山奥の修道院
導かれて辿りついたのは、あばら屋――というのは流石に失礼が過ぎるかもしれないが、そう言っても差支えないほどに老朽化した小さな修道院だった。
外目に見ても風がよく通りそうだということがよく分かる。二階建て……いや、屋根裏を入れれば三階分はありそうだが、この小さなボロボロの建物の中で一体どれだけの人数が生活を共にしているのだろうか。
一通り見まわすだけでも、修道女と思しき人物が五人前後、子供が大小併せて十人弱居るようだった。しかし、その中にあって異様な空気を放つ者がいる。姿は見えないし、どこに居るのかも定かではない。しかし、確実にその何者かがこの建物にいる、ということはよく分かる。
もしやその者が魔獣を殺したのだろうか? いや、それにしては少々気が微弱過ぎるような気もするが――いずれにしても話を聞かぬことには何も分からないし何も言えない。
隣を見れば、リラが気恥ずかしそうに、どこか困ったように微笑みを浮かべていた。
「こんなお粗末な建物で恐縮なのですけれど……」
言いながら、彼女は軽く会釈をし、「こちらにどうぞ」とでも言うかのような仕種で手招きをする。
「シスター・グレース! イリス!」
その時、建物の方から一人の修道女が駆け寄ってくる。外見で判断するに、思春期を少し過ぎた程度の年齢だろうか。魔族も魔族で成長速度がまばらな為に分かり難いものの、それでも魂の在り方や魔力の量などである程度は測れるものだが……人間は成長が早すぎるために見た目では全く分からない。
走り寄ってくる彼女とリラではリラの方がそれなりに年上だということは分かるのだが、意外にも二人の年齢はそれほど離れていないのかもしれない。
「シスター・ブロシア!」
「ぶろしあ!」
未だ腕の中で微睡みの中にいたイリスが完全に意識を覚醒させたのを感じ取り、彼女を地に下ろす。イリスは覚束ない足取りでシスター・ブロシアと呼ばれた女性の元へと走っていった。そんなイリスをブロシアは全身で抱き留め、涙する。
「あぁ、あぁ……イリス、無事で良かった。私が目を離してしまったばかりに、本当にごめんなさい……! イリス、怪我はしていない? 痛いところはない?」
矢継ぎ早にそんな言葉を口にしつつ、イリスの全身を確かめる。気付けば周囲にもヒトが集まりつつあった。
恐らくは皆、イリスを心配していたのだろう。不安な顔を浮かべている者も多いが、その中にも少なからず安堵の空気が流れている。
「しすたー・ぶろしあ、大丈夫よ! おにいちゃんが助けてくれたの!」
言いながらイリスは私を指差す。ブロシアはそのとき初めて私の存在を認めたらしく、ふとこちらを見上げた直後、顔を紅潮させ、酷く驚いたように目を見開いた。
それと同時の周囲からの好奇の目も向けられ、どよめきが起こる。
「あ、あああ、あの……!」
何かを口にしようとしながらも、口籠る彼女の反応はなかなかに見ものだった。これが
さて、そんな彼女になんと声を掛けるべきなのか――と考えていれば、横からすっとリラが間に入った。
「シスター・ブロシア、それに皆さん。こちら、イリスをお助け下さったルインさんですわ。遠くからいらしたとのことでしたから、お礼も兼ねてうちで休んで行かれませんか? と、ここまで足を運んで頂きましたの」
なんともそつのない、無難な紹介だ。要らないことは一切言わない。こちらの事情を察してか、情報は最低限に、しかし決して嘘は吐かずに必要なことはしっかりと伝える。この言葉を聞くだけで、彼女が聡明な女性であるということが十分に分かる。
「突然訪ねてすまない。短い時間ではあるが、世話になる」
軽く頭を下げてみるものの、これといった反応はない。皆、茫然とこちらを凝視している。
まぁ、当然と言えば当然だ。単純にこのようなところに来客が来るというだけでも珍しいはず。加えて、見た限りでは成人男性は見当たらない。そのようなところに男が突然訪ねてくるとなると警戒するのもまた当たり前のことと言えよう。
そして何より――自分の見目がとても目立つことは私自身が一番よく理解している。故に、彼女たちの態度は至って正常だ。
「あらあら皆さん、緊張されていらっしゃるのね。ご無礼を申し訳ございません、ルインさん。その、こういった場所ですから、滅多に来客もないもので……」
「なに、分かっているとも。こちらも急に訪ねたのだ。気にせずともよい」
「感謝致しますわ。それでは、中へご案内致しますわね。その、本当に何もない――えぇ、古くて汚いところなのですけれど、どうかご容赦くださいましね」
そう言って建物へと向かっていくリラの後に続けば、何も言わずとも人垣が割れる。
成人しているであろう修道女たちの視線は戸惑いや動揺の気持ちが強く表れているものの、子供たちの視線はどちらかというと好奇心だろうか。大人と子供とでこうも反応は違うものなのだな、と少しだけ興味深かった。
錆びた鉄の甲高い音を響かせながら、木でできた古い扉が開かれる。同時に、カランカランと軽い音が鳴った。成る程、扉に鐘を付けることで来客や侵入者があってもすぐに気付けるようになっているのか――と、上を見上げ、その音の正体を見つけながら感心する。
確かに、他者の気配を感じ取れない者にとっては、こうした原始的な防犯が役立つこともある。何より
中に入れば黴と埃の混ざったような古い木の匂いが鼻腔を刺激する。
一歩踏み出すごとに小鳥の囀りを発するかと思えば、次の瞬間には蛙が潰れたように鳴く床に、隙間から漏れ出ずる陽光によって空中に舞う塵を氷雪のように輝かせる壁と天井、蜘蛛の巣状に罅の入った窓ガラスはところどころ色が変わっており、まるでステンドグラスのようで――……どのような言葉を飾り立てようとも、この建物を綺麗だと形容することはまず不可能だ。
だが、それでも不思議と不快ではなかった。少なくとも、これまで私が暮らしてきた荘厳でものものしい建物に比べれば、その何百倍も心が安らぐ。
「よいところだな……」
「ふふっ、そのように仰って頂けると、たとえお世辞でも嬉しいですわ」
口にするつもりはなかった。どうやら己が無意識を制御できなくなっている程に、私の気持ちは緩んでいるらしい。
それだけこの建物が――否、或いは彼女が、か――警戒心を無にするほどの穏やかな空気を擁しているのだ、ということにしておこう。
「応接室はこちらになりますわ。とはいえ、その、やはり貧相なものなのですけれど……」
一つの扉の前でリラが歩みを止める。他の部屋のそれに比べれば、確かにその扉はやや凝ったつくりになっているようだった。剥き出しの生木に簡単な防腐剤を塗っただけだと思われる他の扉と違って、簡素ではあるものの彫刻が施され、かつてはそこに色彩があったのであろう痕跡も見受けられる。
恐らくは金メッキで出来ていると思われるノブにリラの手が伸びる。油の差されていない鉄が擦れ合う音を響かせながら、その扉はそっと開かれた。
導かれるまま中へと足を踏み入れれば、そこにはガラス製の楕円の長机が一卓、その前に向き合うようにして長椅子と二脚の単椅子、そして気持ちばかりのオットマンが一台――部屋に置かれた家具はそれらと長椅子の後ろに置かれたガラス戸棚くらいのものだ。戸棚の中には特にこれといったものは入っていない。
正面の窓からは西日が差し込み始めており、既に日没が迫っているということを告げていた。
作法に則って単椅子の方に腰かけようと足を進めるも、リラに「よろしければこちらに」と長椅子を勧められ、素直にその心遣いに従う。
「今、何かお飲み物をお持ちしますので少々お待ちくださいませね。それから、現在当院の院長が出ておりまして……副院長であるわたくしがお相手致しますことをお許しください」
言いながら深々と頭を下げるリラに「いや」と制止の言葉を掛ける。
「それから、えぇっと……そう! そうでしたわ。その、お召し物を洗ってしまおうかと思うのですけれど……」
如何なさいますか? ――と、言外にそう告げられ、どうしたものかと逡巡する。が、恐らく何かしら明確な形での礼を受け取った方が向こうも気が楽な筈だ。その厚意は有り難く頂戴しておくべきなのだろう。
「そうだな、ではよろしく頼む」
「はい! では今、替えの服をお持ちしますので……」
そう言って部屋を後にする彼女の背を見送りながら、ふっと息を吐く。それと同時に全身の力が抜けていくのが分かった。決して柔らかいとは言えない背凭れに背を預け、天井を仰ぐ。軋んだのは椅子なのか、それとも床なのか。
さて、ここまで来て何の収穫もなかったら――と、一瞬思いはしたものの、それはそれだとその考えを打ち消す。
「それにしても……」
今から服を洗った場合、乾くのはいつになるのだろうかと、袖口の黒ずみを見ながら、また一つ嘆息をした。
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