第18話 彼女の面影

 ここからもう少し歩くのですが――と言いながら、彼女は慣れた足取りで山道を進んで行く。本来ならばその手には少女の手が繋がれている筈なのだろうが、一連の出来事でイリスは疲れてしまったようで、今は私の腕の中で穏やかな寝息を立てていた。

「お手を煩わせてしまって申し訳ないですわ」

 ちらとこちらを振り向きながら彼女は苦笑する。

「なに、私が申し出たのだ。そなたが気に病む必要はない」

 未だ幼子とはいえ、この山道を女性が運ぶのは酷だろう。相手に悪い印象を与えては情報収集に支障が出る。ならば極力親切にすべきである、というのはついこの間、痛い目を見たことでよく分かった。

 それに、少なくとも私は人間界ここでは全くの部外者であるということも忘れるべきではない。如何に魔界での地位を築いていようとも、彼女たちにはそのようなことは一切関係ないのだから。


「そういえば、自己紹介が遅れましたわね。わたくしは……ライラシアと申します。洗礼名はグレースですわ。お好きな方で呼んでくださいませ」

 その名を聞き、あぁ――と納得する。

「ライラシア……リラの花のことだな。成る程、そなたの瞳の色によく合う名だ」

「あら! あらあらあら……うふふ、ありがとうございます」

 ふいに口をついたその言葉に深い意味はなかった。しかし彼女は存外にその言葉を真摯に受け止めたようだった。嬉しそうに礼を告げると、仄かに顔を赤らめ、心なしか俯く――その言葉と仕種の裏に、何故か寂寥を感じたのは気のせいだろうか。

「ふふ、そうですわね……では、わたくしのことはリラと、そう呼んで下さいませんか?」

 そう、恐らく気のせいだ。もし本当にそうであるのなら、自ら進んでこのようなことを言い出したりはしないだろう。

「あい分かった。私も未だ名を伝えていなかったな。ルインだ。ルイン・サタノフ、それが我が名だ。そなたの好きに呼ぶがよい」

「ルインさん、ですわね。承知いたしました」

 彼女――リラはそう言うと、軽く頭を下げカーテシーの形を取った。この山道でそのような礼儀など気にせずともよいものを……と思いもしたが、恐らくこれが先ほど彼女が言っていた「礼を尽くす」ということの一つの形なのだろう。無粋なことは言わず、こちらも素直にその礼を受け取る。


 そうして再び歩き出そうとしたとき、思い出したかのように彼女がこちらを見た。

「ところで、ルインさん? 無礼を承知で、一つ確認させて頂きたいことがあるのですけれど、よろしいでしょうか?」

 何やらとても言い難そうに視線を逸らし、彼女は口ごもる。

「よい。如何なことでも許そう」

「では、その……ルインさんは、その、男性でいらっしゃいます、わよね?」

 一体何を聞いてくるのかと内心身構えていたが、脱力する。

「そんなことか……」

 珍しくも何でもなく、常に――誇張などではなく――いつも聞かれることだ。自分でも顔立ちが中途半端であることは自覚している。自身でそのように感じているのだから、他者からみれば尚更だろう。

「あぁ、そうだ。一応は、な。分かり難かろう?」

「いえ、そのようなことは……ない、と言うと嘘になってしまうのですけれど……その、とても綺麗なお顔をされていらっしゃるから……えぇ、まるでリリス様のように」

「リリス?」

 それも「よく言われること」だと聞き流そうとした先で、思わぬ名が飛び出してくる。思わず聞き返せば、リラは慌てたように口早に言葉を紡いだ。

「えぇ、はい……その、わたくしどもクライオス教は基本的には主を掲げる宗派なのですけれど、最初にその教えを施してくださった天使様の名だと、そう伺っております。遥か昔に造られた彫刻や絵画があるのですけれど、とてもお美しい方で……あぁっ、すみません、このようなお話しを」

「いや、問題ない。……リリス、というのは魔界の始祖の名でもあるな」

 少し意地の悪い言葉だったかもしれない、と口に出してから気付く。人間は基本的には神族側だ。自らの信ずるものが魔族に由来しているかもしれない――などと言うことを聞かされて、良い顔をする者は少ないだろう。

 しかし、彼女はそうではないらしい。

「えぇ、それについても聞き及んでおりますわ。リリス様は、主がこの世界からお隠れになられたことを嘆き、哀しみ、恨まれた、と。そしてだからこそ、この世界を一刻も早く完璧なものにし、主にお戻り頂くために魔界を創り、魔族を創られた、とも」

 少なくとも自分たちはそのように教えられている――と付け加えながら、彼女はどこか楽しそうに笑っていた。

「ルインさんは、魔界からいらっしゃったのでしょう?」

「あぁ」

 突然の問いかけに意表を突かれる。何故それが分かったのか、と問いたい気持ちもあったが、精霊族ほどではないにしろ人間にしてはやや尖った耳と、先程の言葉、その他諸々――推察するには十分すぎるほど、私は彼女に情報を与えている。あえてそこに言及する必要もない。そして特に嘘をつく理由もなかった。だからその場は肯定する。

「きっと、それで・・・、ですわね」

 その言葉の中にどれだけ多くの意味が含まれているのか。私には知る由もなかった。しかし、だからといってそれを知りたいという気持ちも不思議と起こらない。

 いや寧ろ――花が綻ぶかの如く柔らかく微笑む彼女の纏う空気は、「彼女に触れてはいけない」と、そう私に警告してくるようだった。


 さくり、さくりと乾いた足音だけが聞こえる。沈黙だ。山中だというのに、獣の声も、鳥の囀りも聞こえない。風は止み、木の葉も口を閉ざしていた。あるのはただ、私と、彼女の、足音だけだ。

「んぅ……」

 いや、違うな。イリスの寝息を忘れていた。私の腕の中で完全に安心しきっている彼女の寝顔を見て、ふっと緊張の糸が緩む。そして、先程抱いた疑問を思い出し、彼女に問う。

「リラ、私も無礼を承知で聞きたいことがあるのだが、よいか?」

「えぇ、勿論ですわ」

 今度は足を止めることはせず、顔を一瞬こちらに向けて微笑んだだけで、リラはそのまま山道を進み続ける。

「先程、そなたはイリスを我が子と言っていたが、それはどういう意味だ? イリスは母は死んだと言っていたが……」

「まぁ、そんなことですの?」

 彼女は「ふふ」と笑うと、体ごとこちらを振り向き、後ろ向きにゆっくりと歩き続けた。

「わたくしはもう子供を授かることはできぬ身ですから、修道院で預かる子供たちは皆、わたくしの可愛い子供ですわ。ただそれだけのことです」

「そういうものか」

「えぇ、そういうものですわ」

 いわゆる母性、というものなのだろうか。そもそも母という存在に良い印象を抱いたことがない私にはよく分からない話だ。

 いや、寧ろだからなのか。彼女に潜在的な苦手意識を覚えてしまうのは。嫌いという感情ではない。しかし、近付きたくない。そのような想いが、私の意識の根底に渦巻いている。

 再び前を向いて歩き出した彼女の背を見つめ、その背に私がこの世で最も忌むべき存在を重ね――……いいや、違うと、静かにかぶりを振った。

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