第17話 あの娘の面影

「いやぁーーー‼」


 炎を纏い、前方を蒸発させながら進んだ先から聞こえてきたのは先程と同じ悲鳴だった。幸いにしてまだ生きてはいるらしい――が、先のそれが遭遇したことによる悲鳴だとしたら、今のものは恐らく追い詰められたが故のものだ。

 もはや一刻の猶予も残されていないと考えた方がよいのだろう。速度を限界まで上げる。

 右手には魔力で生成した細剣レイピアを、左手には帯刀していた短剣マインゴーシュを。細剣には魔法で炎を封じ込める。先に感じ取った魔力が彼奴きゃつの素だとすれば、一撃で仕留めることは容易い。

 だが、想定外とはいつ何処に潜んでいるか分からないものだ。相手の戦力を見誤って危機を招き寄せるくらいならば、最初から相手より数段上回る戦力を用意するに越したことはない。


「見つけた――!」

 前方、約三十ベイト――木々の隙間に黒い影が見える。それはやはり猪のようななりをしていた。それほど大きくはないものの、ヒトを害するには十分な大きさだと言えよう。

 襲われている者が何者であるかはこちらからは見えない――ということは、ちょうどあの魔獣が盾になってくれる可能性が高いと考えて問題ない筈だ。ならば――

「ここから仕留めてやる」

 足を止め、細剣に更なる魔力を込める。やり過ぎるとこの一帯を焦土と化してしまうため、あくまでも一点集中、一撃必殺であることが重要だ。流石にこの位置から避けられることはまず有り得ないが、万が一ということも十分にある。

 慎重に、彼奴が標的に襲い掛かるその瞬間を狙うべきだろう。

 じりじりとした沈黙の中、それの右足が動く。

「今だ!」

 右腕と細剣に貯めていた魔力を一気に放出する。轟音が木々の間を駆け抜ける。青い焔は自らの周囲一帯を無と化しながら、一直線に標的へと向かって行く。


 そして――大気が揺れる。


 魔獣は焔と踊る。雷鳴の如き叫びを上げながら、青い焔をその身に纏い、一心不乱に踊り続ける。正に身を焦がすような激しい舞踏ダンスだ。決して美しいとは言い難いが、その躍動感溢れる姿は死に抗う生命いのちの輝きそのものである。だが、かといってここで命だけは助けてやるという選択肢もない。

 苦しみ、喘ぎ、悶え。焔に愛されし獣はただひたすらに暴れ続け――やがて生命の焔は燃え尽きる。黒炭と化した表皮を瓦解させながら、獣は静かに地に伏す。


 無様に沈黙する黒い塊を横目で見遣り、その先に蹲る小さな人間に歩み寄る。

「生きているな?」

 恐怖に彩られた瞳がこちらを見る。薄い栗色の瞳が大きく見開かれ、次の瞬間には滝のような涙が流れ出た。わんわんと泣き続けるそれは、未だ年端もいかぬ幼気な少女である。とりあえず無事であるのならこれ以上私が関与する必要もなかろう。

 そもそも何故このようなところにこのような幼子がいるのか? という疑問は一先ず置いておき、まずはこの魔獣がどこから湧いて来たのか、そしてこの魔獣が何で出来ているのかを調べる必要がある。

「さて……ん?」

 魔獣を調べるかと身を屈めたところで、背後に軽い重みがかかる。しがみつくかのように腰に小さな腕が回され、背には顔を埋められ。

「うっ、うぅっ……」

「……はぁ…………」

 これでは作業にならん――そう思い、少女の腕を外そうと手をかける。

「おにいぢゃん……ありがどう……」

 が、鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった声でそう言われては、こちらも気が抜けるというものだ。

「あぁ。無事で良かったな」

 少女の腕から逃れつつ、その小さな体を抱き上げる。

 縁もゆかりもない人間だ。たまたま魔獣に襲われていただけの、至って普通の人間だ。そこには何の感情もない。何の感情もない筈だ。だが――

「うん……」

 その幼気な姿が、初めて会ったときの彼女に重なってしまうのは何故だろうか。この小さな少女の手を取ることで、あの娘への贖罪ができよう筈もない。増してや、もしもあの時に戻れたら、などという有り得ぬ願望が現実になるわけでも。

「……そなたは、何故ここに居た? 親は居ないのか?」

 そうとは理解していても、それでも何かを期待している自分がそこに居ることに酷く辟易する。手を差し伸べてどうする? 優しくしてどうする? その先には何もない。そう、何もないのだ。

 この穢れた手が救えるものなど、何一つ――。

「ままは、しんじゃった……」

「そうか……」

 よくある話だ。珍しい話ではない。特に人間は短命ゆえ、幼き頃に親を亡くす子供は多いと聞く。彼らは魔族われわれにとっては恰好の餌だ。愛を欲する子供の欲望は果てがない。それを糧とする魔族が多いのは当然のことだ。

 再び目の淵に涙を溜める幼子の姿に、手は自然と彼女の髪を梳く。

 一陣の風が吹く。焼け焦げた肉の臭いが鼻腔をつくも、それは決して食欲をそそる様なものではなく。ただただ獣臭さだけが、風によって拡散された。


『……――ぁーー……! ……ィリスさぁーーん‼』


 その時、風に乗ってヒトの声が耳に届く。女性の声だ。誰かを探している様子で声を張り上げている。ふと、腕の中に収まる少女を見る。

「イリス、というのはそなたの名か?」

 少女は何も言わずに一度だけ頷く。

「成る程。では、あとは一人で行けるな?」

 ここまで声が届いているということは、それほど遠くないところに既に迎えの者が来ているということ。ならば、私がいつまでも彼女を見ている必要もあるまい。そう思って少女――イリスを地に下ろすも、彼女は一向に声の方に行こうとはせず、私の脚にしがみついたままだった。

「いけない」

 そして、そう一言。真直ぐに見上げてくる瞳には嘘も偽りもない。ただ真実の言葉だけがそこにはあった。

 人間の子供一人、別に突き放したって構わない。構わないのだが――あぁ、この強情さがまた、あの頃のあの娘に似ていると、そう思ってしまう己を心の底から呪った。



「しすたぁー!」

 見知った女性の姿を認め、少女は走る。小さな体の全てを使って、三度溢れ出す涙を撒き散らしながら、ただ一直線に女性に向かって行く少女の背を黙って見送る。ここから先のことは私には一切関係のないことである――と、その場を後にすべく、踵を返す。

「お待ちくださいまし! あの……!」

 掛けられた声に振り向けば、深々と頭を下げる女性の姿がそこにはあった。頭部を覆う長いヴェールが重力のままに彼女の肩から背を包み込む。その服装から彼女が出家した身であることが分かった。

 黒と白とで構成された衣服は全体的に厚く長く、なかなかに重苦しい印象を受けるものの、清廉なる乙女であることを主張するにはこうした服装が良いのだろう。魔界の雌どもはまずしない恰好だ。

「我が子を……イリスをお助け下さり、ありがとうございます」

 その言葉にどこか違和感を覚え、思わず首を傾げる。今、我が子――とそう言ったか? 確かイリスは、親は死んだ、と言っていたが。

 女性はおもむろに頭を上げる。髪はヴェールの中に綺麗にしまい込まれており、彼女の輪郭は如実に描き出されていた。決して美しいというわけではない。整ってはいるものの、至って平凡な顔立ちだ。しかし、それでも不思議と目が離せなかった。

 恐らくは、その眼だ。淡く柔らかな輝きの奥底に力強い光を放つ薄紫の双眸が、私の意識をまるで磁石のように惹き付ける。ほんの一瞬、ただそれだけの邂逅だ。しかし、その一瞬が全てだった。

「どうということはない。偶々……そう、偶然居合わせただけだ。礼には及ばん」

「いえ、そうは参りませんわ。恩には礼でお返しする。それが世の摂理ですもの」

「そこは、恩には恩を、ではないのか?」

「いいえ。恩とは受けた側がそのように受け取るだけのものであって、返そうと思って返せるものではございません。あなた様も、わたくしやイリスに恩を売ろうとお思いになられたわけではないのでしょう? ですから、恩を受けたわたくしにできるのは、礼を尽くすことだけですわ」

「成る程な」


 言葉、仕種、表情、雰囲気……その全てが柔和であり、手弱女という言葉を体現したかのような女性ヒトだ。しかしその裏に見え隠れする強かな意志がこの上なく重い・・。この女性には敵わないと、そう本能が告げてくる。一見普通の人間であるはずの彼女から、何故このようなプレッシャーを感じるのか。その理由が分からず困惑する。

「では、私はこれで――……あぁ、いや、まだこの周囲に危険な獣が居るやもしれぬ。女子供だけで戻るのなら重々用心せよ」

 苦手、というのとは違う。そうではないのだが、何故か彼女に見つめられると調子が狂う。この空気に毒される前に――いや、浄化される前に、だろうか――早々にこの場を立ち去るべきだろうと判断するも、いつの間にやらイリスが私の腕を掴んでいた。

 またか――と思いはするものの、それが意外に不快ではないと感じている自分に気付き、嘆息した。

「おにいちゃんも、いっしょに帰ろ?」

「いや、それは……」

「まぁ! それはよい案ですわね!」

 とはいえ、その言葉を呑むわけにはいかぬと棄却しようとした矢先、横から賛同の声が入る。朗らかな声だった。まるで硝子の淵を水滴が叩くかのような、勢いと透明感のある声だ。

「その……古くて何もない、小さな修道院ではあるのですけれど、この周辺はわたくしどもの修道院よりも何もないただの山ですから……よろしければ、一度お立ち寄りになって、お身体を休ませていかれませんこと? それに、そちらの汚れも、なるべく早く洗ってしまった方がよろしいかと存じますわ」

 おずおずと下手に申し出るようでいて、その言葉はやはり強い。何やら有無をも言わせぬ雰囲気があり、どうにも気圧される。柔よく剛を制す、とはこういうことを言うのだろうか。

 彼女が指で示しているのは先ほど魔獣の死骸を漁った時にできたであろう、袖口の黒い染みだ。確かに、白いブラウスにこの染みは目立つが……この程度のものは使い捨ててしまっても構わないので、格段困るということもない。だからこの申し出も断ったって構いはしないのだ。

「しかし、私も故あって此処に来ている。先にその用を済まさぬ限りは――」

 だが、そこまで言ってふと思い至る。もしこの周囲に修道院があるのならば、そこに魔獣の目撃者、或いはそれを屠った者の情報を持っている者が居るのではないか、と。

「そうだな……では、少し世話になろうか」

「歓迎致しますわ! ふふ、良かったですわね、イリス」

「うん! おにいちゃん、ありがとう!」

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