三.破滅を導く者
第16話 蒼空を仰ぐ
空とは、斯くも蒼いものなのか。
見上げた先に広がる蒼穹の清々しさをどう受け止めるべきなのか――思わず嘆息が漏れる。初めてだ。空を美しいと感じたのは。
突き抜けるような蒼にうっすらとかかる白のヴェール、その隙間から漏れ出ずる光の
吹き抜ける乾いた風は程よく冷えており、火照った体から熱を奪う。木の葉達の奏でるカラカラとした囁くような笑い声が、ほんの僅かばかり私の鼓膜を叩いてくることが、また格段に心地よかった。
あぁ、そうか――これがあの
ほんの数ヶ月前に決別した妹を彷彿とさせる。あの娘の瞳は無限の星を散りばめた夜空を映す水面だったが、なるほど髪は蒼空だったらしい。もう二度と会うことのないかもしれない彼女の姿を想い、そして自身にはそれを嘆く権利など微塵もないという事実を改めて受け止め、また一つ溜め息が漏れ出た。
人間界を訪れるのは初めてではない。過去に一度だけ、他国の戦争に介入する形で招致されたことはあった。しかしそのときに見たのは、魔界と同じような赤黒い空に黒い雲と、そして真っ黒な灰と煙燻る世界だった。
こんなにも醜い世界が魔界以外にもあるのだな――と酷く幻滅したことだけはよく覚えている。
立ち上る硝煙の臭いと、焼け焦げる血肉の臭いはこの上なく不快で。充満する毒ガスに喘ぐ人間の呻き声と、次第に降り始める黒い雨の音はまるで呪詛のように脳裏に響き渡った。
死を当然のものとして受け入れ、至上の救いとして死を求める。祈りは届かず、欲望は枯れ果て、絶望すらも存在しない。正しく
あれを心地よいなどと言って貪ろうとする奴らの気が知れぬ。美的感覚というものが壊滅的だとしか言いようがない。
しかし人間界とは――否、人間とはそういうものだ。誰の意思とも知れぬ見えざる手に操られ、奪い合い、憎み合い、殺し合い、そして死ぬ。自らの命が生み出す力がどこぞの誰にどう使われるかも知らないままに。
だから人間界は嫌いだった。憐れな生き物が愚かな生き方をする、そんな醜い世界だと――そう思っていた。
しかし、そうではない。そうではなかったのだ。
あの娘はずっと憧れていたのだ。輝く蒼の空、降り注ぐ温かな光、駆け抜ける爽やかな風と、緑溢るるこの大地に。いつか連れ出してくれる「あのヒト」を待ちながら、ずっとずっと、この世界を夢見ていたのだ。
だから認めたくなかった。認めようとは思わなかった。人間界は魔界以上に醜い場所であると、そう思い込んでいたかった。そうすれば、あの娘が帰ってくるかもしれないという希望も持てただろう。しかし――あぁ、これは確かに美しいと、そう認めざるを得なかった。
一際強い風が吹く。魔界から運び込んだ澱んだ空気を洗い流すかのようなその風は、まるで禊だ。
「さて、いつまでもここで感傷に浸るわけにはいかんな……」
あの娘が恋焦がれた世界を見てみたいという気持ちも確かになくはなかったが、しかしここへは遊びに来たわけではない。早々に仕事を済まさねばと、目の前にそびえ立つ山を見上げる。
「これを、登るのか……」
ある程度制限があるとはいえ、流石にこれは出てくる場所を間違えたな――と途端に気持ちが下降していく。人間界に上がって早々、既に何度目かも分からない溜め息を吐きながら、山道から外れた獣道に足を踏み入れた。
***
山の中腹に一箇所だけ、酷い腐臭を放つ場所を見つける。恐らくはこれが、あの男の言っていた魔獣の成れの果てだ。話を聞くに、此奴が人間界に放たれたのはほんの二日、三日前のはずだが、それにしては随分と惨たらしい姿になっている。
ほとんど溶解している肉塊を一部掬い上げ、どのような組織によって成り立っているのか確認する。一見普通の肉のように見えなくもないが、よくよく見れば、それは蝿を始めとしたあらゆる生き物によって生成された
「蝿に猪……ということは、あの豚野郎の差し金か。まったく、悪趣味な……」
そもそも、魔獣というのは
「
ここまで複雑な合成術式を展開できるほど、グーリアは魔獣の研究、ひいては遺伝子学の研究に精を出していなかった筈だ。あそこは禁忌に関する研究にもほとんど興味を示していない。それ故に異種交配についてもほぼ無関心を貫いていた。
そもそも「喰えるかどうか」「如何にして喰うか」というところにしか興味がないのだ、あの国の皇帝は。にも拘わらず、こうしてヒトならざる生物を産み出すことができたのは、恐らくルフリアの後ろ盾があるからだろう。しかし――。
「ルフリアと組んであの豚に何の得がある? そもそも何故それを人間界に放つのか……」
分からないことがあまりにも多すぎる。あの男からの命令はあくまでも人間界に放たれた魔獣の調査をして来いという、それだけのものではあるのだが――それでは私自身のこの不快感が治まらぬ。
幸いにして、今回の件に関しては特に期限は設けられていない。すぐに帰って来るだろうと踏んで、あえて指定する必要はないと判断したのだろうが、ならばこちらはそれを利用させてもらうだけだ。
「とはいえ、右も左も分からぬ人間界……どこから手を着ければ良いものか……」
次に繋がる鍵がないかと、魔獣の腐肉を漁る。小蝿の死骸や液状化しつつある肉片が爪の間に侵入してくるのがこの上なく不快だが、この際致し方なしと割り切るよりない。それに――
「ん?」
どうやら収穫がない、という結末にはならずに済みそうだ。
「これは、別の獣の毛だな」
どす黒いその塊の中に、数本の白い毛を見つける。猪ほど硬くはない。いや、寧ろ、野生動物としては柔らか過ぎる。ヒトの髪とまではいかないものの、それに近いものがあると言えよう。
「この猪を殺した張本人か?」
そも、人間に魔獣が殺せるとは思えない。中には殺せる者も当然いるだろう。しかしながら、そんな人間が都合よくこの近くにいる確率というのは一体どの程度のものだろうか?
とすると、考えられる可能性は妖族だ。彼らはその身体に獣のような特徴を備えている。獣に擬態することができる者も居るというくらいだから、考えられない話ではない。
もし妖族でないとするならば、或いは魔獣に匹敵する存在か。
「しかし、神獣がこのようなところに来るだろうか?」
いや、有り得ない話ではないのかもしれぬ。聞けば、この国は神族を至高と仰ぐ者が治める公国だという。ならば、神族自らこの国に恩恵を齎すということも――……ないな。それだけは有り得ない。
神族はそのような
特別な恩恵というものは、たまにあってこそ効果を発揮する。それは他の誰でもない、奴ら自身が一番理解し、そして利用していることだ。
だから、少なくとも神族が加護を与えるために神獣をこの場に遣わしたことはまず考えられない。
だが、それ以外の理由なら――?
何故魔獣が放たれたのか。誰が魔獣を屠ったのか。謎は深まるばかりだ。
「はぁ……」
最近、溜め息を吐くことが多い――ふと、そんなことを思って、その事実にまた溜め息を吐きたくなる。それだけ心が弱っているということなのだろうか。私にも弱るような心があったのか。
手に付着した汚物を拭いながら、次にどこを目指すべきかを考える。この白い毛を持つ者の後を追うか。しかし周囲にそれらしき足跡が見つかるだろうか。
豪快に抉れた山肌を見上げ、無残に薙ぎ倒された木々を見遣る。敷き詰められた枯葉の絨毯は恐らく昨日今日あたりに舞い落ちたものだろう。屍の腐敗具合から考えるに、この猪が命を絶ったのは恐らく人間界に放たれた直後だ――となると、この絨毯の下からその痕跡を見つけねばならないということになる。
「……はぁ」
骨だ。非常に骨だ。しかし、それをやらないことにはここで立ち往生するよりない。
今の私がすべきことは、まず何よりも実績を作ることだ。それを成し遂げるためには地道な作業こそが必要ということなのだろう。
地面の様子をよく観察しようとその場に屈みこんだ、その時――妙な違和感が湧き出でる。今まで何もなかったこの空間に、極めて異質なものが突然現れた。魔力だ。しかし、ただの魔力ではない。これはヒトのものではなく――……そう思った次の瞬間、
鼓膜を裂くような裂帛が鳴り響く。
違和感の根源も、絹裂き声の出所も、どちらもここから少し離れている。しかし、決して遠いという程でもない。
人間を助ける義理などありはしないが、かといって新たな魔獣の出現を見逃すわけにはいかない。遅かれ早かれどうせ殺すのだから、無駄に失われる命は少ない方が良いだろう。
となると時間との勝負、ということになるのだが……そのためには進行方向を妨害する木々が邪魔だ、この上なく。
「致し方なし。焼き払うか」
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