第9話 狩り場

「いやぁ、飲んだ飲んだ。久々にこんなに飲んだな」

 店を出ると、既にけろっとしているいつも通り・・・・・の院長の姿がそこにはあった。隣に立っているコトカさんもやはりいつも通りの冷めた表情で、つい今しがた酒場であったことがまるで嘘のようだ。

「え、もしかして演技だったんです、か……?」

「おや、気付かなかったのか。なるほど、私は役者としてやっていけるかもしれないな」

「私は気付いたよ」

 どこか得意げな二人の姿を見て、自分がいかに間抜けなことをしていたのかと恥ずかしくなってしまう。

 いや、でもあのままだと本当に本気でお金が無くなりかねなかったわけだし、僕は悪くない……はずだ。なんだか泣きたくなってきて、ついつい下唇を噛んでしまう。

 見上げれば、見事に朱く染まった夕焼け空がそこに広がっていて、それがまた僕の心に哀愁の念を生み出した。

「いやいや、悪かったよ。そんなに気に病まないでくれ。とりあえず表通りに戻ろう。日が沈むと、ここは恰好の餌場だ」

 言いながら、院長は目線だけをすぐ近くの路地へと向けた。何か胡乱な気配を感じて、僕も目線だけをそちら側に持って行く。暗がりであまりよくは見えないが、誰かがいる。それも複数人だ。

 よくよく耳を立てれば、金属が擦れる音も聞こえてくる。恐らく武装しているのだろう。向こうもこちらの様子を窺っているらしく、できるだけ早くここを離れたいという気持ちはよく分かった。

「そうですね。分かりました」

 そのまま何も知らないていで僕たちは足を動かす。気持ちだけ、少し足早に。


 路地の前を通るときは少し緊張したものの、結局何事もなくその場を後にすることができた。あとは目の前の突き当りを右に曲がって、暫く真っ直ぐ進み、その後左に曲がれば表通りに出られる。

 宿は、多少高くても表通りの安全な場所をとった方が良いかもしれないな――そんなことを考えていた僕の視界の端を、ほんの一瞬、黒い大きな影が横切る。

 先程男たちが居たのとは反対側の――僕から見て左側の――路地だ。何事かと思って振り向いてみるも、その影は既になりを潜めている。思わず足を止め、じっと路地を見つめてしまう。

「そうか、フェイトも男の子なんだな」

「え? は? 何ですか院長?」

 突然、感慨深げにそう呟く院長の意図が分からず、思わず振り返れば、院長はなんだかにやにやとした、言ったら悪いが聖職者にあるまじき下品な笑みを浮かべている。

「だって、その路地の先は歓楽街に繋がっているからさ」

「かっ! かん、らくがい……⁉ 違います! 違いますよ! そんなんじゃなくて‼ さっきそこをヒトが通った気がしたから!」

「はっはっは、分かってる分かってる。女性に比べて成長が遅いとはいえ、男も十五ともなると肉体的には大人に近いからな」

「違いますってば! コトカさんも何とか言ってくださ……コトカさん?」

 気付かなかった。コトカさんがとても苦しそうに、包帯で隠された右目を押さえていたことに。


 すぐに院長が駆け寄り、彼女の身体を支える。それで安心したのか、コトカさんも院長に寄り添うように体の力を抜いた。けれど表情が晴れることはない。どこを見つめるでもなく、ただ茫然とその場に立ち尽くしていた。

「コトカさん、大丈夫ですか? 右目、痛みますか?」

 僕の問いかけに、彼女は静かに首を横に振る。やや呼吸が荒いのは痛みを我慢しているのか、それとも他に何か理由があるのか。

「痛く、ない……熱い……灼けるみたいに、熱い……」

「それは、痣が、ですか? それとも……」

「目。右目が、熱いの……」

「今までにそういう風になったことはありますか?」

「……ない」

 いよいよもってどう対処すべきなのかが分からない。痣が熱いのなら包帯を全てとってしまえばいい。多少の人目はあるだろうが、彼女の見た目は今でも十分に目立っているし、今更だ。それに、幸いにして夜は近い。それほど人目を気にする必要はないだろうから、相応の処置をすればそれで良かった――もし痣が痛むのだったら。

 けれど、原因が分からないとなるとどうしようもない。とりあえず患部を見るのが一番なのかもしれないが――

「まずいな……あと少しで表通りだ。コトカ、もう少しだけ我慢できるかい?」

 ――気付いていたのは僕だけではないらしい。暗闇に潜んで、複数人の気配がする。先ほど無事に通り過ぎたと思ったのは気のせいだったようだ。いや、僕たちの現状を見て、改めて狙いを定めてきたのだろう。

 完全に囲まれる前に、早々にこの場を離れたいというのが本音だ。それは院長も、恐らくコトカさんも同じだろう。

 コトカさんが大きく息を吸い込み、一瞬止めて、ゆっくりと吐き出した。院長から体を離し、右目を思い切りひっぱたく。

「コトカさん……?」

 大丈夫だろうか? そう思って声を掛けた僕に、彼女は涙の滲む、真っ赤に腫れた左目を向けた。

「ん……大丈夫……まだ、いける」

 その様子があまりにも痛々しく、思わず「無理をしないで」と声を掛けたくなる。だけどそうじゃない。今は無理をしてもらわなければいけないときだ。

「良い子だね、コトカ」

「すみませんコトカさん、あと少しだけ我慢してくださいね」

 気配が徐々に近づいてくる。多勢に無勢はいかなる状況でも不利になりやすい。真っ向から相手にしたりせず、さっさとお暇するのが得策だろう。


「フェイト」

 いつでも動けるように……そう思って足に重心を置いた僕に、院長が囁くような声で話しかける。

「私はコトカを連れて表通りに向かおうと思う。君には申し訳ないが……」

「分かりました。僕は突き当りを左に曲がります。どれくらい引きつけられるか、正直なところ分かりませんが……」

「すまない、君にはいつも助けられる」

「いつも助けられてるのは僕ですよ、お父さん」

「ははっ、私はいい息子を持ったな。表通りの、そうだな……中央広場にある鐘の前で待っているよ。それじゃあ、三、二、一で飛び出そう。いいかい?」

「はい」

 深呼吸をし、息を整える。本気で走るのは――

「よし。三……」

 ――久しぶりかと思ったけれど、考えてみたら一昨日も本気で走ったっけ。でも、人間相手に逃げるのは、かれこれ五年ぶりだ。

「二……」

 最初の一歩は力まないのがコツだと昔、教官に教え込まれた。力んではいけない。音を立ててはいけない。力んだ分だけ音や衝撃としてエネルギーは浪費されるのだ。

「一!」

 だから僕は、真冬の凍った池の上を歩くように、鳥が風を捉えて飛び立つように、優しく大地を蹴った。

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