第10話 逃げるが勝ち!

 突き当りを左に、次の路地も左、そして右、右、左――。陽は完全に沈み、空には夜の帳が降りている。今は辛うじて目が利くけれど、このまま逃げ続ければ恐らくこの辺りは真っ暗になってしまう。

 確かこっちには歓楽街があると院長が言っていた。ならば、その明かりを目指して進むのが良いだろう。

 どうやら相手はそこまで足の速い相手ではないらしい。僕を追ってきているのは恐らく三人。だが、いずれも距離を詰めてくる様子はなかった。

 とはいえここは彼らの狩場だ。地の利はあくまでも向こうにあるということは忘れてはいけない。

 さて、もし追い付かれた場合にどうしようか。流石に街中で発砲するのはまずいだろう。ヒトが集まって来てしまうし、何より条例違反だ。そもそもカツアゲや暴力沙汰自体が違法だということはさておき。

 複数人を相手に接近戦はなるべく避けたい。体術も教わりはしたけれど、実用的ではないし、それ以前に体が忘れている可能性が高い。単純な力押しは言うまでもなく愚策だ。ではどうするか、というと――

「やっぱり逃げるしかないんだろうなぁ……」


 僕は弱い。何も特別な力なんて持っていない、ちっぽけで弱い子供だ。それは自分が一番分かっている。僕にあるのは、ほんの少し普通の人間ヒトより力が強くて、そう簡単には死なないという、ただ生きるためだけに与えられた力だ。

 でもだからといって、命を雑に扱って良いというわけではない。だってそれは、僕が望んでいる生ではないのだから。

 どんなに見苦しくても、どんなに生き汚くても、僕は生きたいと願い続けなければいけない。そのためには、そう思える環境を常に自分で創る必要がある。だから痛いことからも苦しいことからも辛いことからも、僕は極力逃げて、逃げて、逃げ続ける。

 でも、もし逃げきれなかったら――

「わっ!」

 目の前に突然現れた黒い大きな壁にぶつかり、跳ね飛ばされる。地図上では、こんなところに壁なんてなかったはずだ。思いっきりついた尻餅をさすりながら、僕はその壁を見上げた。


「悪い、不注意だった。大丈夫か?」


 低い、けれどどこか安心感のある声が降ってくる。その壁は、とても大きな、ヒトだった。

「えっと、あの、はい。僕も思いっきりぶつかっちゃって、ごめんなさい」

 差し出された硬く大きな手を取り、引っ張り上げるように勢いよく起こしてもらう。立って並んで、その人物の大きさを改めて実感する。

 夜だから、ということもあるのだろうけれど、見上げたところで顔がよく分からない。普通に並べば、僕の目線はそのヒトの胸のあたりまでもない。

 真っ黒な服が上手いこと夜闇の中に溶け込んでいたようだ。僕の目線がもう少し――いや、もっと大分高ければ、暗闇に馴染みきらないその人物の白銀の髪と異常に白い肌を認識し、ぶつからずに済んだのだろうか。

「ん? 黒くて、白くて、大きくて……?」

 このヒトだ! 先ほど彼女が言っていたのは間違いなくこのヒトだ! そう確信して伝言を伝えようとしたとき、背後からガシャガシャとした騒がしい足音が複数近付いてきた。

「まずい! 追いつかれた……!」

 今ここで逃げたらきっとこのヒトに迷惑をかけてしまう。どうしたものかと周囲を見回してみるものの、良い策は思い浮かばなかった。

「追われてるのか?」

 無意識に相手のコートの掴んでしまっていたらしい。僕は慌てて彼から手を離し、こくこくと首を縦に振る。

「ふーん……」

 何とも気のない返事だった。それはそうだ。だって普通に考えて、たった今出会ったばかりの人間が追われているとして、それは自分には何ら関係のないことなのだから。

「あの、じゃあ、ぶつかってすみませんでした! 僕、もう行きます!」


 ロウカさん、ごめんなさい。結局伝言を伝える余裕は有りませんでした。胸の内で静かに彼女に謝りながら、僕はそのヒトの脇を摺り抜け、歓楽街の明かりへと向かって走り出す。

「待て。そっちには行かない方が良い。行くならあっちだ」

 言って、指差されたのは先ほど僕が逃げて来た方――つまり、あのならず者たちのいる方向だ。

「でもそっちには……!」

「誰も来てないみたいだけど?」

 一体何を言っているんだろうか、このヒトは。とにかく今は逃げなければと走り出そうしたとき、大きな逞しい手が僕の肩をぽんと叩いた。その瞬間、まるで憑き物が落ちたかのように心が静まっていく。

「え、あれ……?」

 そうして気付く。足音どころか、ヒトの気配すらどこにもないということに。

 いや、そんなわけはない。そんなわけはないはずだ。そう思って身構えてみるも、誰かがこちらに近づいてくることはなかった。

「な?」

 彼の顔は見えない。どんな顔でどんな表情をしているのか見当もつかない。けれどその優しく落ち着き払った声が全てを物語っていた。ホッと一息ついて、改めてそのヒトを見上げてみる。暗がりの中で彼と眼が合った気がした。気がしただけかもしれないけれど。

「何があったんでしょうか……?」

 なんだか腑に落ちなくて、思わずそんな言葉が口をつく。だって、さっきまで確かに奴らは僕を追って来ていたのだ。それが何故急に? やっぱり背の高い強そうなヒトが近くに居たからだろうか?

「さぁ? そもそも何で追われてたんだ?」

「それは僕にもよく……カツアゲとか、ですかね?」

「ふーん? まぁ、良いか。とにかく、今はあっちには行かない方が良い。少し厄介な奴らが来てる」

 言いながらそのヒトは僕の背中を優しく押し、先程来た道へと誘導していく。なんとなく逆らえる気がしなくて、僕は彼に導かれるまま足を進めてしまう。

「あの、厄介な奴らというのは?」

 それでも、その「厄介な奴」とは何者なのか。気になってつい聞きたくなってしまうのはある種ヒトの性だと言えるかもしれない。

 刹那、空気が重くなった気がした。僕の後ろを守るように歩いてくれているそのヒトの足が止まった。冷たい風が吹く。カラカラと、乾いた枯葉が石畳を叩いた。なんだか寒いな、と思って体を震わす。答えを聞いて、伝えることを伝えたらさっさと表通りに戻ろう――そう思って、彼の答えを待つ。

「まぁ、なんつーか……」

 どこか言いにくそうにする彼の様子に、聞いてはいけないことだっただろうかと少しの申し訳なさを感じてしまう。しかし、次に飛び出した言葉、それは――

「いわゆる異端審問官だ」

 ――僕が最も忌むべき存在を示す言葉だった。

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