第7話 褪色する憧憬
「フェイト、聞きたいこと、がある」
明らかに場違いだ――と萎縮してしまう僕に、コトカさんが真剣な面持ちでそう切り出した。
五年の間に世間は随分と様変わりしていた。
修道院から一番近い「村」は山の麓にある、特に名前もない小さい村だけれど、そこから更に南に向かうとそれなりに大きな街が見えてくる。それがこのレレンテの街だ。ザングランツ大司教国との国境からそれほど近いわけでもないが、決して遠いわけでもない。
大司教国のヒトの出入りもそこそこあるものの、かといって見つかるリスクが高いと言うほど多いわけでもなく、情報集めの初手としては最適な場所だと言えるだろう。
そんなレレンテの街も五年ほど前までは木でできた古めかしい建物が多かった。街の規模自体は大きくても、街全体の雰囲気はこぢんまりとしている、どこか温かみのある街というのが僕の率直な印象だった。
けれど今となっては街の周囲には石造りの高い塀が築かれ、街も中心部になればなるほど灰白色の石でできた頑丈な建物が立ち並ぶ。土埃の舞っていた街路もやはり石畳に覆われ、整然とした街並みがそこにはあった。
世間は五年でこんなにも変わるのか――と実感すると同時に、この街独特の温かさが消えてしまったことに、僕はほんの少しの寂しさを覚える。
さて、情報を集めるならやっぱり酒場だろう――と言い出したのは院長だった。院長は一応は聖職者の筈なので飲酒は禁止されている。が、「背に腹は代えられない。情報を集めることが第一だ」と言って街で一番栄えている酒場……ではなく、裏通りにある剣呑な雰囲気を醸し出す酒場に入ることになった。
「酒場に入って酒を頼まないのでは怪しまれる」
と、言っているけれど、そんなものは当然詭弁だ。嘘を吐くときに左の眉を掻いてしまうという本人の癖がそれを雄弁に物語っていた。
院長は意気揚々と次から次にお酒を頼み、既に周囲の屈強な体をした――やや人相の悪い――中高年たちと盛り上がっている。いや、あれも一種の情報収集なのだろうけれど、それにしたってもう少し抑えても良いんじゃないだろうか。
正直言って、コトカさんはこの場に居ても何も違和感がない。年齢的にももちろんだけれど、それよりも何よりも彼女の纏う危うい空気がこのお店の仄暗い雰囲気にぴったりなのだ。
だから彼女と院長は何も問題ないのだけれど――僕だ。そう、僕は明らかにここに居てはおかしいのではないだろうか。なんとなく周囲の目が痛いと感じるのは、ただの自意識過剰であってほしいと切に願う。やけに露出度の高い衣装を着たお姉さんが注文前に僕にミルクを持ってきた時点で、多分そうではない。
せっかくだから有り難く貰っておこうと、そのミルクに口をつけようとしたときだった。周囲に十分に注意を払いながら、コトカさんが囁くような小さな声で僕に話を切り出したのは。
「な、なんでしょうか?」
出会ってから今まで、コトカさんから僕個人に対する質問をしてきたことは一度もない。あったとしてそれは、今日の夕飯は何かとか、何か買ってくるものはないかとか、大体いつもそういうものだった。
そんな彼女が「聞きたいこと」なんていうのはどんなことなのか――僕は思わず身構えてしまう。
「もし、答えたくなかったら、答えなくていい、から」
彼女がこちらの意思を確認するかのように言葉を切る。僕はただ静かに、一度だけ首を縦に振った。
「フェイトは、その、あの国で、指名手配されている……例の……?」
なんと答えるべきなのだろうか。きっと彼女が言っているのは間違いなく僕のことだ。けれど、ここで肯定の意を示しても良いものだろうか?
もちろん彼女のことは信頼している。けれど――。
「答えなくて、いいよ。その……指名手配されている彼、生存状況の、絶望的な戦場から……生きて、戻って来たって、聞いたから」
初めて見る
そのときになってようやく、僕は彼女の言わんとしていることが分かった。
「もしそうなら、どうやって、戻ってきたのか……誰かに、助けてもらったのか、知りたくて……」
彼女は、死神の情報を僕が持っているのではないか、と踏んでいるようだった。確かに、先日聞いた死神の能力と僕が生きて戻った状況というのは似ているのかもしれない。
「あのヒトは、神族は死神を忌避していると、そう言ってた。だから、死神に救われた命を、神族が狙っても、おかしくないかも、って……」
僕の過去について、彼女に詳しく話したことはこれまでなかった。それでも彼女がここまでの情報を掴んでいるのは、旅の途中に大司教国でその話を聞いたからなのか。
どう答えたものかと悩んでしまう。だけど、コトカさんにとってもこれはとても大切なことのはずだ。だから、ここで嘘を言ってはいけないと、僕は覚悟を決める。
「そう、ですね。助けて……もらいました……」
コトカさんの顔に、ほんのりと光が差したような気がした。これまでただの一度も――それこそミスラの前ですら決して晴れなかった彼女の陰が、ほんの少しだけ払拭される。彼女は少しだけ体を乗り出し、僕の方に顔を寄せる。
「そのヒトは、どんなヒト、だったの?」
「あの方は……」
ついこの間、夢に出てきた。そう、昨日の朝だ。願った通りに、あの方の言葉をちゃんと聞けた。けれど、夢は醒めると同時に煙のように記憶の彼方に散ってしまう。あの方は――
「金色の髪で、手が、すごく冷たくて……良い匂いがして……綺麗な方で……」
「瞳の、色は?」
瞳の色。一昨日見た、コトカさんの右目のことを思い出す。とても綺麗な
じゃあ、あの方の瞳は? 紅い、紅い、紅い瞳――あれは本当に紅かったのだろうか? あのときは逆光だった? いや、けれど。
上手く思い出せない歯痒さに頭がどうにかなりそうだった。もやもやとした黒い影が僕の脳内を侵食している。それらを追い払って思い出そうとすればするほど、そこだけがまるで虫食いのように真っ白なのだ。
絶対に忘れるものかとあれほど強く思っていたのに。八年という歳月は、僕の記憶を見事に色褪せさせていた。
夢で見た。何度も何度も繰り返し見た。だけど、夢は夢だ。それが真実なのかもよく分からない。あの出来事が夢だったことは有り得ない。だけど、夢は記憶によって創られる。僕がそう記憶してしまっていたのなら、それは
あの方は、あの方は、あの方は――
「フェイト?」
――どんな方だっただろうか?
「そこの君たち、ちょっといいかな?」
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