第5話 死神の目
コトカさんの全身に巻かれた包帯を、ミスラが少しずつ解いていく。彼女の全身には蛇のような痣がある。彼女の包帯はそれを隠すためのものらしい。
前に一度、露出度の低い服を着てみては? と進言してみたが、完全に隠すとその痣が熱を持って痛むのだと言っていた。我慢して丸一日着てみたこともあったのだが、最終的に痣だけでなく全身が熱を持ち、四十度を超える高熱となってしまったために断念した、とも。
だから彼女は冬になっても常に薄着で、腕や脚などは極力出している。修道院の中では人目を気にする必要もないからと、いつも彼女は帰って来るとすぐに包帯を解いていた。
二人は、僕がこの修道院に連れて来られた頃には既にあちこちを旅していた。ただ、当時はまだコトカさんも未成年だったため、あまり遠くへは行かず、近場で情報収集をしていたように思う。
少しずつ遠くへ行くようになったのは二年前くらいからで、今回は実に半年間帰ってこなかった。こんなに長く居なかったのは初めてかもしれない。
「探し物、見つかりましたか?」
「ううん、全然」
僕は彼女たちが何を探しているのかを聞いたことはない。僕がここの生活に慣れた頃に旅の理由を聞いたら、「探し物」と一言返って来ただけだった。きっと言いたくないのだろう。
「コトカちゃん、どこか痛くないですか? 熱持ってるところはない?」
「大丈夫」
コトカさんの声が柔らかくなった。普段は周囲を威圧するような鋭い目つきも、ミスラの前でだけはいつも優しい。
あぁ、この二人は愛し合っているんだな――と、二人を見る度に僕はそれを実感する。それがどういった形の愛なのかは、僕には分からないけれど。
ただ、そうして唯一の愛情を抱くことのできる相手がいることを、少しだけ羨ましいと感じてしまう。
僕にもいつか、僕だけを特別な存在として認めてくれるヒトが現れることがあるのだろうか。そのヒトのためなら何できると、そう思える相手が――。
コトカさんが終わったら今度はミスラの番だ。明らかに場違いな僕がここに呼ばれたのは、これが理由だ。
ミスラは上着のボタンを一つずつ外し、するりとシャツを脱ぎ捨てた。僕は彼の背中に回り、そこにある赤黒く、ところどころ黄色や緑に染まったガーゼをゆっくりと外した。
「どう、でしょうか?」
悪いと思いながらも、思わず息を呑み、顔を顰めてしまう。
「これはちょっと……正直、僕にはもうどうしたら良いか……」
彼の背中にはとても大きな裂傷がある。肩甲骨に沿って二つ。じゅくじゅくと血液と滲出液が滲み続ける、絶対に治らない傷が。
通常、天使族には一対の翼が生えている。力が強ければその枚数が増えることもあるらしいが、基本的には一対双翼だ。
けれど彼にはそれがない。彼は――ミスラは、自らその翼を削ぎ落としてしまったのだ。
世界には五つの禁忌が存在する。
一つ、屍者を甦らせてはならない。
一つ、魂を喰らってはならない。
一つ、屍者を辱めてはならない。
一つ、他の種族と交わってはならない。
一つ、神を殺してはならない。
これらを犯せばたちまち魂もろとも腐り果て、二度と魂の循環を許されない、というのが世界に伝わる理だ。
だから子供たちにも最初に世界の成り立ちを教える。間違いがあってはいけないから。
けれどいつだってシステムには例外が存在するらしい。
今から十数年前に「神殺し」と呼ばれる少女が現れた。神族を殺し、そして世界のシステムの網を抜け、更には天使族による追跡さえも免れた、ある種、奇跡の少女である。
そして言うまでもなく、その少女がコトカさんだ。
二人がどこでどう知り合い、何故一緒に居るのかを僕は知らない。知らないけれど、
ミスラの背中の傷もそのときに出来たものらしいと、それだけ分かっていれば十分だ。
ただ、理由は分かっても手の施しようがないことにはどうしようもない。僕は軍で一通りの傷の手当てや薬草の知識を叩きこまれている。そこを見込まれて彼の傷の手当ても頼まれたのだが、年々酷くなっていくのを見るに、人間のやり方ではどうしようもないらしい。
それでもないよりはマシだろうと、薬草を染み込ませたガーゼを宛てておく。
「フェイト、いつも有難う、ね」
そう言ってはにかむミスラに、僕は首を横に振る。
「いやいや、全然役に立たなくて、ごめん……なさい」
ミスラは見た目には僕と同い年か少し上くらいに思える。ただ、天使族は長寿だ――というよりも、僕たち人間の寿命が他種族に比べてあまりにも短すぎる。彼は僕よりも大分長く生きているはずなのだが、見た目にはどうしても親近感を覚えてしまう。
けれど、相手はあくまでも天使族……と考えれば考えるほど、彼との距離感をどうとるべきなのかが分からなくなる。それは向こうも同じらしく、お互いにたまに敬語になったりタメ口になったり、たまに敬称を付けたり付けなかったりと、とても曖昧なコミュニケーションが成り立っている。
「そっか、やっぱり、見つけるしかないのか、死神」
「死神?」
ぽつりと呟かれたその言葉を、僕はつい聞き返してしまう。コトカさんは普段右目を隠している前髪を耳に掛けた。今まで静かに閉じられていた瞼が開かれる。そうして見えたのは、鮮やかなまでの
「そう、死神。私たちは、死神を探しているんだ」
彼女の右目は「死神の右目」というらしい。彼女たちが神族や天使族から逃げていたとき、とある
神族は同じ神族である死神を忌避している。そして天使族は曲がりなりにも神族の加護のある人間に手出しはできない。だからこの右目はきっと君のことを守ってくれるだろう、と。
そしてその人物はこうも言っていたそうだ。
「
神族の息吹は万物を癒す。とはいえそれも完璧ではない。けれど死神は特別だ。死に瀕した体でも、肉体と魂が乖離さえしていなければ、ほぼ完全に元通りになる。何より、魂の記憶を書き換え、魂の瑕すらも癒してくれる。神族によって刻まれた呪いに対して、これ以上の適任はいない。
ただ、死神はこの世界を醜いと思っている。鮮明で美しい夢の世界によく逃げている。一度逃げたら三百年はこちらに帰ってこないこともある。次にいつ帰ってくるかは分からない。だから、その右目が鮮明に見えるようになったとき、それを合図に死神を探してごらん――と。
死神の情報を求めて数年間彷徨い続けても、その情報は一切入って来なかった。けれどここ半年ほど、その右目が突然見えるようになったというのだ。それでも最初のうちはどこかぼやけて見えていた景色が、更にこの二ヶ月ほどでとても鮮明になったのだとか。
今回の旅が随分と長引いたのは、死神が目を醒ましたことが分かったからだった。
しかしながら、ここ数週間ミスラの傷の加減がどうにも芳しくない。そのため一度ここに戻ってきたということだ。
「死神は夢の世界によく逃げると、あのヒトは言っていた。だから、次の眠りにつく前に、必ず、見つけなきゃ」
それだけ言うと、コトカさんは立ち上がり、扉に向かう。
「他の皆にも、挨拶してくる。まだ、だったから」
「あ、はい、行ってらっしゃい」
「あの、コトカちゃん、ボクも……」
コトカさんは振り返り、ふっと口許を緩めた。そしてゆっくりと首を横に振る。「ゆっくり寝てて」ということなのだろう。そのことを察したのか、ミスラは大人しく椅子に座りなおす。
そして部屋を出ようと再び一歩を踏み出したそのとき、彼女は思い出したかのように僕を見た。
「私たちがここに、戻ってきた理由。もう一つあった」
何だろう? と首を傾げた僕に告げられたその言葉――それは、僕が一番危惧していたことが現実になったことを意味していた。
「ザングランツ大司教国が、戦争を始めた」
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