第3話 神獣
静謐な時間が訪れる。先の喧騒などなかったかのように、聞こえるのは木々のさざめきと鳥の声だけだ。
とすん、と拳銃が足元に落ちた。全身から急激に力が抜けていくのが分かった。思わず膝をつき、茫然と目の前の猪の亡骸を見る。
怖かった――先ほどまで忘れていたその感情がぶわっと全身を駆け巡る。冷え切った手足は震え、心臓は今にも爆発しそうだ。ガタガタと噛み合わない歯を必死に静めながら、感覚のない両手を組んだ。
カサカサと何かが近づいてくる気配がして、我に返る。
あぁ、そうだ、まだ終わっていなかった。
そう、終わっていない。それは分かっている。けれど、どうしても足が動かない。拳銃だってすぐそこにある。あるのに、この震える両手では、その小さな命綱を再び握ることができなかった。
嫌だ、僕はまだ死にたくない――心の内でそう願っても、真っ赤に染まった純白の毛皮を風にたなびかせながら、鼈甲のような黄金の双眸はしっかりと僕を捉えていた。もう駄目なのか。いや、まだ諦めるのは早い! だって、この狼は先ほど僕を庇ってくれていた――ように感じた。
一歩、また一歩と距離を縮める狼を真っ直ぐに見据えたまま、僕はただ自身の幸運を祈るしかなかった。
狼が顔を近づけてくる。鼻息が顔にかかった。既に黒く変色しつつある赤い液体を顎のあたりから滴らせ、狼は口を開く。血生臭いにおいが鼻腔をついた。
やっぱり駄目なのか――そう思った刹那、頬を柔らかく生温いものが撫でた。
そして擦りつけるかのように僕に頭突きをしたあと、尻尾をぶんぶんと振りながら少し離れた位置に蹲踞する。
「あの……有難う、助けてくれて……。撃とうとしたりしてごめんなさい」
言葉を理解できるのかは分からないが、どうしても言わずにはいられない。狼は尻尾を振ったまま、どこか嬉しそうに――僕の欲目かもしれないが――軽い遠吠えをした。
暫し見つめ合う。これからどうすべきなのかも分からず、既に随分と明るくなってしまった空を枝葉の隙間から眺める。そのとき、背後から何かが羽ばたく音が聞こえてきた。直後、頭上から質量を伴う何かが落ちてきた。どさっ、という鈍い音がして何事かとその方を見る。
「ひぇっ……」
一羽の兎――の死体が僕の足元に横たわっていた。思わず変な声が出てしまう。
前方から「アーアー」という鳴き声。見上げれば、いつの間にか猪の死骸の上に随分と立派な――体長が一ベイトにも及びそうな巨大な鴉が留まっていた。
「え、なに? なに⁇」
あまりにも想定外の出来事の連続に、もはやどこから何を考えるべきなのかも分からなくなる。とりあえず今現在分かることは、ここにいる動物たちは皆、普通のそれよりも大分大きいということだけだ。
この山に突然変異種が突然こんなに増えたのだろうか? いやいや、流石にそれはないだろう。ないと思いたい。
そもそもこの狼は僕を助けてくれた。それがまず何よりも不思議だし、突然現れた鴉もやはり何を考えているのかわからない。
目の前に転がる息絶えた兎と、猪の上に鎮座する鴉を交互に見つめ、続けて狼に視線を向けた。そこには多少なりと救いを求める気持ちがあったのは確かだ。
狼はそんな気持ちを察してくれたのか、のそのそとこちらに近づいてくる。そして、地面に放り出された兎を差し出すかのように、前脚ですっと僕の方に寄せてきた。
「もしかして、くれる、の……?」
そんなまさか。そんなまさか――とは思いつつも、その言葉に肯定の意を示すが如く、鴉はバサバサと羽根を羽ばたかせ、狼は「クゥーン」と犬のように鳴いて尻尾をはためかせた。
「あ、ありが、とう……?」
とりあえず厚意には甘えておこうと、兎に恐る恐る手を伸ばす。
「そういう意味じゃない」と言われることを恐れ、ちらと鴉と狼に視線をやるが、一匹と一羽は涼しげな顔で一連の動作を見守っていた。特に問題はなさそうだ。
まだどこか生温かさの残る兎を持ってきた袋に詰め込み、「さてどうするか」とこの後のことを考える。
無我夢中で逃げていたため、自分が現在どのあたりにいるのか、皆目見当がつかないのだ。いつもはそもそも道から外れることすらしないし、外れることがあったとしてちゃんと目印をつけておくのだけれど――
「目印、かぁ……」
強いて言えば、猪がなぎ倒してきた草木がそれに該当するだろうか。だけど問題がある。
「ロープなしでこれを上がるのは、流石になぁ……」
木々は倒れ、地肌は抉られ、先程僕が駆け下りてきたときよりも随分と荒れた道になってしまっている。元々急勾配だったこともあり、今からこれを登っては何時間かかるか分からない。
「こんなことなら訓練を怠けるんじゃなかった……」
軍に居た頃ならこの程度簡単に登れたのに。幸せにうつつを抜かしすぎていた数時間前までの自分を少しだけ呪いつつ、別の方法を考える。
一度立ち上がり、周囲を見渡す。なんとなくの距離と方向は分かるけれど、上手く修道院に辿り着けるだろうか? 遭難しても死ぬことはないとはいえ、皆に心配をかけてしまうのは気が引ける。
「う~ん……」
「アーアー」
先ほどまで猪の上にいた鴉が、いつの間にか僕の目の前に降りてきていた。鴉は僕を見上げ、軽く一鳴きする。数秒間目線を合わせた後、その二本の脚でちょんちょんと――と表現するには逞しすぎる足で歩き出した。
僕の横を通り過ぎ、数ベイト進んだあたりでこちらを振り返る。そしてまた数歩進んで振り返り「アー」と鳴いた。
「ついてこい、ってこと?」
それこそそんなまさかだ。そんなまさかなのだが、猪から助けてくれた狼といい、兎の恩恵を与えてくれた鴉といい、彼ら――彼女らかもしれないが――が普通の動物ではないことは既に理解している。
狼を一瞥すると、「その通り」とでも言うかのように頷いた。
「ええい、ままよ! ……と、その前に」
このままここにいたってどうにもならない。何もしないよりはした方が良いだろうと、鴉の誘いに乗る覚悟を決める。だけどその前に一つやらなければいけないことがある。
僕は狼に近づく。狼の毛皮に付着した血液はすっかり乾き、固くなってしまったようだ。ぼさぼさとした、本来は美しいのであろうその毛並をそっと撫で、額に軽く唇を落とす。
「本当に有難う。君のお蔭で、僕は無傷で済んだよ」
狼は不思議そうに首を傾げ、僕の頬についた小さなかすり傷を舐めた。僕は苦笑する。
実際、僕の身体についた傷は逃げながら草や枝によってつけられたものだ。猪につけられた傷は一つも無い。だから嘘は言っていない。「これは違うよ」と、狼の頬や顎を軽く撫でる。
狼はくすぐったそうに身をよじった。甘えるような声を出して、狼もまた、同じように僕の額に鼻をつけた。
「じゃあ、行くね。有難う」
少し名残惜しい気もしたが、どんなに優しいとはいえ、身元も知れぬ狼を皆のところに連れて行くわけにもいかないだろう。後ろ髪を引かれる思いをしながら、僕はその場を後にした。
***
「それはきっと神獣だな」
「しんじゅう……?」
耳慣れない言葉に、僕は思わず聞き返す。
六十代半ばという年齢の割に、服の上からでも分かる筋骨隆々な体を持つ神父――アギレラ院長は彼らをそう推測した。
鴉に案内され、無事に修道院に着いたはいいものの、待っていたのは当然ながら皆の心配の声とお叱りだった。そしてこれもやはり当然ながら朝食の準備などは既に終えられており、「まずは食べよう。フェイトは食後に私の部屋に来るように」とのお達しを院長から受け、こうして事の次第を打ち明けることとなった。
「神族と契約をした動物のことさ。とはいえ、もともと神界にいた動物だろうから、人間界のそれとは何もかもが違うだろうが」
「そう、なんですか……じゃあ、猪も?」
「それは分からない。ただ、神獣は通常、善良な人間を襲わない、とは言われているね」
「だったら、僕が善良な人間ではないから……」
思い当たることはあるのだ。あの日、あのとき、僕はきっと――
「いや、それはないだろう。だったら狼と鴉が君を助ける理由がない」
しかしその推測を、院長は即座に否定した。
「それは、そうなんですけど」
「まぁ、なんにせよ、暫くは山に一人で入ることは禁止だ。君は無事で済んでも、他の皆が心配する。必ず私に声をかけること。いいね?」
年齢と共に瞼がたるみ、柔らかな雰囲気が出てきたとはいえ、院長の眼光は鋭い。念を押されるようにそう言われれば、「はい」と素直に頷くしかなかった。
「そういえばフェイト、君は今日は教育係だったね。ちょうどいい。子供たちにも山に入るなと伝えておいてくれ」
「わかりました」
「じゃあ、行っていいよ」
「え、はい」
もっとくどくどとお説教を聞かされるものかと身構えていたものの、意外にあっさりと院長との面談は終わった。それでもなんとなく気まずい気持ちは拭いきれず、すごすごと扉の方に向かう。
「あぁ、そういえば」
ドアノブに手をかけたとき、院長が「思い出した」と声を発する。
「今日はコトカとミスラが帰って来るそうだよ」
「本当ですか⁉」
「あぁ」
その名前を聞いた僕の胸は、先程までの靄がかった気持ちが嘘のように晴れ渡った。はやる気持ちを抑えながら、僕は院長室の扉を開けた。
院長室を出ると、扉のすぐ右隣にライラさんの姿があった。壁に背を預けながら、顔は俯き気味に、視線は床へと向いている。どうやら僕を待っていたらしい。
もしかして怒られるだろうか? もしそうだとしても文句は言えない。それだけ僕は彼女に心配をかけてしまったのだから。戻ってきた僕を真っ先に見つけ、何も言わずに抱きしめてくれたのは彼女だった。
その後すぐに他の皆が来て、結局きちんと言葉を交わすことはできていない。
だから、お叱りを受けても仕方がない。少しの不安と、それを遥かに上回る罪悪感を覚えながら、恐る恐る声を掛ける。
「ライラさん、あの……」
ライラさんがハッと顔を上げた。そして――
「フェイトさん、ごめんなさい。先ほどはきちんと謝れなくて……」
今にも泣きそうな震える声でそう告げると、彼女は深々と頭を下げた。耳の下あたりで切り揃えられた、やや黄味の強い亜麻色の髪がさらりと落ちる。
「とんでもないです! ライラさんが謝ることなんて何も……!」
そんな姿に耐えられるわけもなく、彼女の言葉を僕は全力で否定した。だって、彼女には落ち度など一つもないのだ。それなのに彼女にそんな罪悪感を抱かせてしまった僕の方がよっぽど悪い。
一刻も早く彼女に頭を上げて貰いたいという一心で、「とりあえず場所を変えませんか?」と、彼女の足元に置いてある大量の洗濯物を指差した。
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