第2話 獣の殺意
先ほどまでの風は嘘のように止んでいた。
陽が昇り、空気が暖まり始めると、この一帯には軽い靄がかかり始める。霧というほどではないけれど、それでもやはり視界が良いとは言えない。それに、今日はいつにも増して土が柔らかい。昨夜はそれほど寒かったということなのだろう。
朝露に濡れる枝葉を掻き分けながら、慎重に山の中を進んで行く。しっけた枯葉を踏む音も感触も心地よくて、自然と足取りは軽くなった。
「やっぱり寒いや……」
風が止んでも、陽が昇っても、寒いものは寒い。かじかむ手を擦り合わせつつ、軽く息を吹きかけ温める。より多くの息をかけるために深呼吸をすれば、鼻の奥が凍りそうに痛かった。
「痛いなぁ」
嬉しくて、思わず笑ってしまう。
冬が近づきつつあるこの山の清涼な匂いを、この肌を切るような冷たい空気を、そしてそれに伴って体が発する痛みを――その全てを感じられることが僕は嬉しかった。それらは全て、僕がこうして今ここに生きている証なのだ。
生きていて良かった。生きられて良かった。僕は今、幸せだ。季節が巡る度、その事実を実感せずにはいられない。
本当はまだまだこの時間を堪能していたい。けれど、あと数十分もすれば院長や他の修道女達、それに今日の朝食当番の子たちが起きてきてしまうだろう。あまり長い時間をかけては、朝食の準備に間に合わない。
それはそれで昼食や夕食に回せば良いだけなので問題はないのだけれど、それでも一応は間に合わせるように努力はしたいところだ。
最悪、動物は獲れなくても問題ない。肉なんて「運が良ければ」くらいにしか最初から思っていないのだから。
目指すべきはここよりもう少し山頂に近いところに密かに作ってある山菜畑だ。
畑自体は修道院管轄のものが近くにもあるけれど、そこで獲れたうちの何割かは税として徴収されてしまう。役人の目を盗むために、絶対に僕以外が入れないようなところに小さな畑を作っておいた。これは院長にもライラさんにも教えていない。
あえて山菜を選んだのは、木々の中に隠しやすいから、加えて、あまり手入れが必要なさそうだからというだけで、そこに深い意味はない。
それに、そうした山中の畑はよく動物たちがやってくる。もし今日、そこに何かしらの動物が居合わせたのならそれこそ幸運だ。
「それにしても……」
今日は昔のことをよく思い出す。軽い登山を楽しみながら、ふとそんなことを思う。
過去のことを忘れたことは一度だってない。あの戦場での出来事も、院長に拾われた恩も、ただの一度だって忘れたことなどありはしない。
だけどそれをあえて思い出すことがあるかというと、それはそれで滅多にあるものでもない。あったとして、それは僕がそのときの気持ちを忘れないようにと、あくまでも能動的に思いを馳せているときだ。
でも今日は違う。
あの夢を見たのは、憶えている限りで実に五年ぶりくらいだと思う。あの出来事から、最初の一年は毎日のようにうなされていた。二年目になってもそれは変わらず、ただ僕自身がそれに慣れてしまい、うなされることはなくなった。
それに実のところ、僕はあの夢を見ることが嫌いではなかった。夢の中でどれだけ苦しい思いをしようと、どれだけ恐ろしい記憶を呼び起こされようと、最後には必ず救いがあるのだ。それが何よりも嬉しかった。それに気付いたとき、あの夢は僕にとって単なる悪夢ではなく、幸せな悪夢へと変わった。
見ることが少なくなったきっかけは三年目だ。院長と出会い、修道院に連れてこられた。そこで初めて安心して寝られる環境を手に入れ、初めて――正確には初めてではないけれど――ヒトの愛情に触れ、ようやく落ち着いたのだ。そして十五歳の誕生日を最後に、僕はあの夢を見なくなった。
そう、僕は二十歳になったのだ。
十五歳の頃から、ほんの少しも見た目が変わらないままに――。
*
「いた……!」
遠目に目的地が見えてきた。あまり物音をさせないように、出来る限り気配を殺して数十ベイト離れた位置から周囲を観察する。
どこか不自然に動いている草はないか。何かの鳴き声は聞こえないか。微かな足音を聞き逃していないか――そうして神経を研ぎ澄まし、そこに何らかの動物がいることに気付く。
ただ、この位置からではそれが何者なのかまでは分からない。なるべく草や枯葉の少ない場所を選びながら、慎重に歩を進める。姿勢を低くし、息を殺し。
「なんだろう、あれ……?」
猪――のように見えなくはないけれど、何かが違う。なんというか、全体的に黒っぽい。黒すぎる。あと、猪の牙はあのような――ギザギザとしたかえしのある――形状をしていないはずだ。突然変異種なのだろうか? いや、それにしたって猪というのはあそこまで大きくなるものなのだろうか? 目算で三ベイトはあるように見えるのだけれど――
「っ! まずい……!」
もう少しよく観察できないだろうかと腰を浮かしたその刹那――目が合った。まるで
どくん、と心臓が大きく脈打った。途端に膨れ上がる周囲の重圧に、本能が全力で警告をしてくる。逃げろ、と。
全身の毛穴が開き、汗が噴き出る。僕は息をするのも忘れて、まるで坂を転げ落ちるかのようにひた走った。
「まずい、まずい、まずい……!」
僕はこの感覚をよく知っている。これは明確な殺意だ。敵意ではなく、殺意だ。
通常、動物はそれほどの殺意を発しない。なぜなら彼らにあるのは「殺す」という意志ではなく、「生きる」という本能だからだ。そもそもそういう概念すらないのかもしれない。
彼らは自らの生存に関わる相手に対して、捕食するため、あるいは自衛のために攻撃に出る。だから彼らは普通は殺意ではなく敵意や闘志のようなものを向けてくる。
もちろんそこに殺意が含まれることは珍しくない。けれど、たとえそうであったとしても、ここまで明確に殺意のみを向けてくることなど有り得ない。
「なんだあれ……なんなんだあれ……!」
だからこそ分からない。あの猪のような生き物は僕に対して明確に殺すという意志を持っている。
食事を邪魔されて苛立った? 動くものを反射的に追いかけているだけ?
いや、有り得ない。そういうレベルじゃない。これは戦場で兵士が発する殺意そのものだ。
草木を掻き分け、服が破れることも構わず、露出した皮膚が切れることも厭わず、僕は鬱葱とした道なき道をただひたすらに走り続ける。
けれど、後方から聞こえてくる重たい足音を聞きながら、自分にはもう猶予など残されていないことを悟る。
どうにかしなければ。腰にある銃に手を伸ばすも、それを構えている余裕など今はない。走りながら弾を装填? 立ち止まることなく振り向きざまに急所を狙撃? そんなことが僕にできるわけがない!
とにかく今は逃げることが第一だ。何か良い手は、逆転の一手は!
『アオオォォォーー……』
「狼の声⁉」
突如前方から聞こえてきた遠吠えに一瞬体が怯む。そもそも、この山に狼なんていないはずだ。だったら野犬? いや、それにしたっておかしい。だって、この山に来てからの五年間、犬の遠吠えなんて一度たりとも聞いたことがない!
あの猪といい、狼だか犬だかの鳴き声といい今日は何かがおかしい。何かがおかしいけれど、とにかく今は逃げる以外ない。
背後に迫りくる荒い鼻息に、より一層心臓がはや打つ。その直後、前方の草が不自然に揺れる。一瞬、真っ白な毛皮を持った大きな獣が見えた。
「やっぱり……!」
あれは狼だ。そして狼もまたこちらに向かってくる。正に進退窮まる状況に思考は完全に停止する。
けれどこのままでは――どうしよう、どうしたら……‼
その時、前方の狼が木の根を強く蹴った。弓なりに張っていたその根は大きく
「え?」
――来なかった。
狼は僕を飛び越え、その後ろにいた猪に飛びついた。
首元に牙を立てられた猪は、低い怒号を上げながら、首を左右に大きく振って進行方向を変える。そして僕のいる場所とは少しずれた場所へと突進を続けた。
狼はといえば、「グルル」と低い呻き声を発しながら、暴れる猪に負けじと食い下がる。白い毛皮が赤黒く染まる。
猪が進行を止め、一際大きく首を振ったその瞬間、狼の体は大きく宙を舞った。しかしそれをものともせずに着地をすると再び猪に狙いを定める。
だが、当の猪は――
「なんで……」
自らを苦しめた狼ではなく、その殺意をまたしても僕に向けていた。鼻息を荒らげ、首から大量の血を流しながらも、猪はこちらを向き、片方の前脚で地面を掻く。次の瞬間、口角から赤い泡を吐きながら、勢いよくこちらに突進してきた。
けれど、今度は僕にも多少の余裕がある。腰にある銃を手に取り、無我夢中で弾を装填する。狙いを猪の眉間に定め――ようとしたが、それは叶わなかった。僕の前に狼が躍り出たのだ。
狼は僕に背を向け、猪に真っ向から向き合う。一瞬腰を低くしたかと思えば、直後にそのしなやかな体躯で再び猪へと襲い掛かった。
狼の後ろ脚は猪の真っ赤な両の眼を潰す。牙はうなじを突き刺し、前脚は首の側面に爪を立てる。
雷が落ちた。
大気が震える。否、それは猪の叫び声だ。この声で山が崩れたって何も不思議ではない。猪は一心不乱に頭を振るうが、やはり狼はその牙を決して抜こうとはしなかった。
やがて動きが鈍くなる。轟音が森林を駆け抜けた。
猪は巨体を横転させる。狼は跳び退き、音もさせずに着地した。四肢を大地にしっかりと着けながら、未だ息絶えぬ猪に臨戦態勢をとる。
横たわる黒い山は、その至るところに赤黒い滝をつくる。地響きのような低い音を発しながら、その山は大きく、しかし弱々しく上下に動く。滝は地に落ち、山の麓に緋の
やがて、山は沈黙した。
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