第1話 幸せな悪夢

 嫌な夢なのか、それとも幸せな夢なのか――どう受け止めれば良いのか分からないまま、僕は寝台ベッドから足を下ろす。外はまだ薄暗く、陽が昇るにはあと数十分は必要になるだろう。今朝の当番は僕ではないから、別にこのまま二度寝をしても構わないのだけれど――

「懐かしい夢を見たな……」

 そんな気分には到底なれなかった。

 怖い夢だった。できれば一生忘れていたい記憶だった。だけど、それでも僕はこの夢を見られることを幸せだと思ってしまう。

 もう二度とあんな思いをしたくはないという気持ちは確かにある。でも――。


 ギシギシと軋む床をなるべく刺激しないようにそっと足を運びながら、衣装棚に掛けられている衣服に手を伸ばす。寝間着を脱ぐとひんやりとした隙間風が肌を切り、ぶるりと身を震わせる。

 冬が近い――というにはまだ少し早い気もするけれど、山奥に建てられたこのボロボロの修道院は、麓の村よりも幾分早く冬がやってくる。特に陽が昇る直前のこの時間の空気は、既に冬の匂いを発していた。

 いつものシャツにそっと腕を通すも、そもそも布地が冷え切っていて、暖をとれるようになるにはまだまだ時間がかかりそうだった。冷え切った両手に息を吹きかけながらうっすらと白く濁る空気を見て、改めて冬が近づいてきていることを実感する。

「寒いなぁ……」

 次にスラックスに足を通し、その上からブーツを履く。靴紐をギュッとしめて、音をさせないように細心の注意を払いながら、トントンと足で床を叩く。違和感がないことを確認して、ループにホルスターを通す。もちろん中には拳銃がある。

「寒い……寒い、かぁ……」

 中にセーターを着るかどうか悩みつつも、まだそれほどではないかと思い、シャツの上にそのままジャケットを羽織る。最後に姿見の前に立つ。そこには相変わらず背が低い、男としてはとても残念な子供の姿があった。

「もう少し、こう……」

 鏡の前に立つ度についつい背伸びをしたくなる。せめて成人男性の平均身長くらいには届きたかった。筋肉ももっとあっても良いのではないだろうか。実際には普通のヒトよりも力はあるはずなのだけれど、見た目にはただのちんちくりんだ。

 ただ、背が伸びない、体格が変わらないというのは悪いことばかりではない。衣服を買い替える機会も減るし、布の面積だって最小限に済むから安上がりだ。現に僕は、数年前に支給された軍服をそのまま着ているのだから。

「ふふっ」

 あんな夢を見たからだろうか――今日はなんだか、いつにも増して心が軽やかだ。

 もっと身長が欲しい、もっと恰好良くなりたいとは思うけれど、今のこの姿もこれはこれで僕の誇りなのだ。ぼさぼさの黒い癖毛を手櫛で軽く整える。鏡の前で仁王立ちをしながら、「うんうん」と頷いた。


 せっかく早く起きたのだから、朝食用の食材を取りに行こう。今朝の食卓が、ほんの少しでも豪華になるように。育ちざかりの子供たちの栄養の足しに、少しでもなるように。当番でないのだから別にそんなことをする必要もないのだけれど、してはいけない理由もないだろう。もしも兎やリスを捕まえられたら上々だ。



 立てつけの悪い扉をそっと開け、ところどころ木が腐りつつある廊下をゆっくり歩く。他の子供や修道女シスターたちが起きてしまわないように。びゅうびゅうと音を立てる隙間風や、窓ガラスのガタガタという音に足音を紛れ込ませる。

 階段は難所の一つだ。どんなに気を付けてもすぐ下の部屋には音が響いてしまう。ほんの少しの申し訳なさを感じながら、一歩、また一歩と階下にある玄関を目指す。途中一際大きく「ビキィッ!」という音が鳴ったが、幸いどこかの扉から人が出てくることはなかった。

 ほっと胸を撫で下ろしつつ、僕は最後にして最大の難関である玄関に手をかける。この扉の上には小さいながらも鐘がついている。隙間風を受けて微かに鳴ることは日常茶飯事だが、力加減を間違えれば「カランカラン」と大きな音を立ててしまうだろう。

 何より、外は風が強い。明けた瞬間にその風に揺らされて鳴ってしまうことも十分に考慮しなければならない。耳をそばだて、風が止む一瞬を待つ。

 風はより一層強い唸り声を上げ、木々を揺らしている。カサカサと枯葉が運ばれ、それらが容赦なく玄関を叩いてくる。この強風が止んだ瞬間が勝負だ。徐々に遠ざかる喧騒を聞き届け――


「こんな朝早くにどちらに行かれるんですの?」


「わっ――」

 背後からの突然の囁きに驚き、思わず声を上げる。が、それが大きな音となる前に、温かくしっとりとした手に口を塞がれた。背後に倒れそうになる僕を、その手の持ち主はしっかりと抱きとめる。

「お静かに」

 首から肩にかけての柔らかな感触――それが何か理解した瞬間、カッと顔が熱くなる。口は塞がれたまま、僕は頭上を見上げた。陰になっていてはっきりとは分からないが、恐らく穏やかに笑っているのだろう。彼女はそういうヒトだ。

 声を出さないように首を縦に振ると、ようやく背後と口許を覆う柔らかな温もりから解放される。振り返り、その人物の姿を改めて確認する。

「おはようございます、フェイトさん」

「おはようございます、シスター・グレース」

 お互いに相手に届くか届かないかという程度の微かな声量で挨拶をしつつ、スカートの裾を軽くつまんで会釈をする彼女に、僕も慌てて頭を下げる。

 彼女は「ふふっ」と小首を傾げて笑い、「外に出ましょうか」とでも言うかのように、扉を指差す。僕は素直に頷いた。


「流石に寒くなってまいりましたわね」

 ギイギイと鳴る扉を極力そっと閉めながら、彼女は楽しそうな声でそう言った。

 冷たい風が頬を切る。飛んできた枯葉に物理的にも切られてしまいそうだ。ふと空を見上げる。まだ青みがかってはいるけれど、視界は良好だ。一瞬で冷たくなった頬を抑えながら、僕は彼女を振り返る。

「シスター・グレース」

「ライラでよろしいですよと、何度も申し上げていますでしょう?」

 グレースはいわば洗礼名であり、彼女の本名はライラシアだ。僕はクライオス教の正式な信徒ではないから本名で呼んでくれて構わない、というのが彼女の言だ。その言葉に甘えようと思いつつも、つい他のヒトと同じくシスター・グレースと呼んでしまう。

「じゃあ、その、ライラさん……」

「はい、なんでしょうか?」

「もしかして、うるさかったですか? 起こしてしまいましたか?」

 彼女の部屋は玄関から一番近い部屋……つまり階段のすぐ下の部屋だ。如何に気を付けようとも、あのボロボロの床では音も震動も伝わってしまうだろう。

「そうですね~……わたくし、実はずっと起きていたんですの」

 だから別に僕に起こされたわけではないよ、と暗に伝えつつ、彼女はまた柔らかく微笑む。ただ、音が聞こえて気になったのもまた事実だ、とも付け加えて。

 それが本当なのか、それとも僕に気を遣っての言葉なのか――そのどちらかは分からないけれど、いずれにしても僕は何だか申し訳ない気持ちになってしまい、自然と視線を逸らす。

「それで、フェイトさんはどちらに行こうとしていらしたのですか?」

「あ、えっと……朝食の食材になりそうなものを、取りに行けたら良いかな、なんて」

 ここ数日でまた面倒を見なければいけない孤児が増えた。これからの時期に備えて、備蓄できる食糧はなるべく使わずにおきたい。そんな旨を伝えると、ライラさんは一瞬驚いた顔を見せた後、困ったように、どこか申し訳なさそうに微笑んだ。

「ごめんなさいね。院長もわたくしも、何も考えずに子供たちを連れてきてしまうから……」

「とんでもないです! だって、僕もそのお蔭でここにいるんですから!」

 あの戦場で多くの死を感じ、殺気に曝され、そうして帰ってきた僕に待っていたのは、卑怯者、裏切り者というレッテルと、群衆の敵意だ。

 日常の中に存在するじっとりとした敵意というのは、ときに戦場で感じる殺意よりも重くなることがある。

 戦場は死んで当たり前の場所なのだ。それだけ自らの命も死も軽い。それに、そうした殺意はあくまでもに向けられたものであって、僕個人に向けられたものではない。

 けれど、日常の中に潜む悪意や敵意というものには限りがない。何よりも、彼らの敵意は全て、明確に僕個人に向いている。

 一瞬の重さであれば確かに戦場の方が重いだろう。けれど、日常は堆積される。どんなに小さなものでも、毎日、毎日、毎日毎日降り積もれば、山にだって成り得るのだ。

 いつしかそれは、ひとりで背負えるものではなくなっていた。


 ――だから僕は逃げ出した。


「あの逃亡生活から僕を救ってくれたのは、紛れもなく院長なんです。あのヒトが何も聞かずに――いや、聞いても気にせず連れてきてくれたから、僕はこうしてここにいられるんです」

 だから、院長やライラさんの慈悲に感謝こそすれ、それに恨み言を言うだなんてとんでもないことだ。僕のように救われる子供が一人でも増えるのなら、僕は喜んで彼らのために働きたい。僕の力はそのためにあるものだと僕自身は思っている。

 言外にそう告げると、ライラさんはおもむろに僕を抱きしめた。

「有難うございます、フェイトさん。それじゃあ、よろしくお願いしますわね」

 先ほど背中に触れたその温もりが、今度は直接顔にくる。ふわふわとした感触と素朴な石けんの香りに、恥らうべきなのか安心感を覚えるべきなのか分からなくなる。顔が異常に熱く感じるのは、多分冷え過ぎた反動だ――なんて、意味のない言い訳を自分にしてしまう。

「あの! じゃあ、行ってきます!」

 あまり強くなりすぎない程度の力で彼女の体を引き剥がし、思わず敬礼の姿勢をとる。これはもはや癖だ。そう、別に照れ隠しでもなんでもない。

「はい、行ってらっしゃい。お気をつけて」

 ひらひらと手を振る彼女の頬に、ようやく顔を見せ始めた陽の光が差し込んだ。



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