絶対服従幸福論

十和井ろほ

一.信仰の子

プロローグ


 ここは地獄だ。


 痛い、苦しい、死にたくない――赤黒く染まった黄昏の空に、兵士の呻き声が昇っていく。硝煙の臭いとすえた血肉の臭いが混じりあい、淀んだ重い空気が沈殿する。屍の山に身を隠し、息を潜め、一刻も早くこの地獄が終わりを告げることを願った。

 地獄。そう、地獄だ。願いは決して叶わない。希望を持つことすら許されない。ただただ消えていく日常を、絶望と怨嗟の声で見送ることしかできない。これが地獄ではなくなんだというのか。

 司教は言っていた。地獄は死後にやってくると。生前に悪しき行いをした者が行き着く先であると。では、ここは死後の世界なのだろうか。僕はそれほどまでに悪いことをしたのだろうか。

 否。否である。ここは生者の世界だ。紛れもなく、僕は生きている。流れ出る血が、早打つ鼓動が、押し寄せる恐怖と吐き気が、そして何よりこの痛みが、この身体がまだ生命活動を行っていることを、この身体の全ての細胞が生きることを諦めていないことを証明している。

 血肉が焼け焦げていく臭いも、屍者が腐りゆく臭いも、それらを運んでくる熱風も、僕の体は全て感じ取っている。そうしていつかは自分もそのようになっていくのだという恐怖に全身を支配されながら、それでもなお生きたいと願い続けてしまうのだ。


 ドン、と突然の重圧。

空気が震え、鼓膜を振動する。遠くで何かが爆発したみたいだ。数秒遅れて熱波が襲い掛かる。周囲にあった血塗れの傀儡を盾にするも、完全に防ぐことは叶わない。

 外気に晒された表皮がじんじんと熱い。粘膜が乾き、眼を開けることも、息をすることすら難しい。瞼が眼球に張り付く。乾いた喉を潤す唾液すら存在しない。ビリビリと痛みを発する口腔内で舌は居場所を失い、どこに触れても激痛が走る。

 大きく膨張と収縮を繰り返す胸を鎮めるために、それが必要なものではないと知りながら大きく息を吸い込む。ひゅうひゅうという音と共に胸に流れ込むのは、黒い灰と毒ガスだ。吸った瞬間に全てが激しい咳となって出ていく。鼻からたらりと熱いものが流れ出る。

 水が欲しい。空気が欲しい。次第に朦朧としていく意識の中で、それでも僕の体は生きるための悲鳴を上げ続ける。でもそれもここまでだ。これで終わりだ。

 きっとこの身体は助からない。そんなことは自分が一番よく分かっている。

 思えば何もない人生だった。たった十三年足らずで幕を閉じる僕の人生は、何を成し遂げるでもなく、何を遺すでもなく、ただ徒に他人に搾取され続けるだけの無意味な人生だった。

 そうだ、そんな人生ならば、これからも無意味に苦しみ、喘ぎ、奪われ続けるよりも、今こうして早々に終わった方がよほど幸福で――


 あるわけがない!


 死にたくない! 生きたい! 生き続けたい!!

 どれだけ不幸であろうとも、どれだけ無意味であろうとも、生き続ければきっといつか、ひとつくらいは良いことが起こったはずなのだ。その可能性の芽すら摘んでしまう終わりなど、誰が受け入れてなるものか!

 

 でも、もう何も見えない。何も分からない。ただ、ただ、暗闇が迫ってくる。痛みもない、何が苦しいのかも分からない。ただただ無という闇が襲い来るのだ。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ、死にたくない怖い、熱い、熱い、寒い、怖い嫌だ、熱い熱い、怖い、寒い、怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い生きたい死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生きたい生き続けたい!!

 水が欲しい! 空気が欲しい! 光が、生きるための糧が――!!


 誰か、僕を――!!


「そうか、それほどまでに生き続けたいか」


 暗闇の中、一点の光が見えた。ひんやりとした暖かなものが頬に触れる。腫れ上がり、ずる剥けになり、既にその体を成していないであろう唇に柔らかなものが触れた。瞬間、この地獄には決して似つかわしくない清涼な風が吹く。

 鼻腔をつくのは吐き気を催す生臭い空気ではなく、これまでの人生でただの一度も味わったことのない、爽やかで、華やかで、そしてとても甘美なものだった。

 それは次に僕の瞼に触れる。乾いた眼球が、膨れ上がった瞼が、嘘のように潤っていく。それが幻ではないことを確認するために、うっすらと眼を開ける。さらりと、柔らかな金糸に頬を撫でられ、くすぐったさに身を捩った。


「ふむ、なかなか綺麗な顔立ちをしているではないか」


 この醜悪な戦場に、燦然と煌めく星が落ちてきた。



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