番外編

番外編1「一歩、前に」

本編未読可。本編開始前の話。





「一歩、前に」


 寺坂知美は首の付け根で二方向に分けて髪の毛を結んでいたゴムを取ってベッドに横たわった。見えていた天井を瞼を閉じてシャットアウトし、深く息を吐く。横たわったことで部屋に入るまで自分を取り巻いていた緊張が解けて素の自分が解放されていくと共に眠気が襲ってくる。睡眠と覚醒の狭間で知美の脳裏に映像が浮かび上がった。

 先輩達がバドミントンラケットを振って、放つシャトル。その軌道。

 いったいどうやって打たれているのだろうと何度も思ったことがある。憧れた先輩達が放つシャトルは、自分が打つショットでは出せない軌道を描いて相手コートを侵略する。

 上から下へ鋭角に突き刺さるスマッシュや、同じ軌道で穏やかにネット前から落ちていくドロップ。あるいは、高く遠くに弧を描いて飛んでいくハイクリアに床と平行に力強く放たれるドライブ。ネット前で小さく、浮かないように舞うヘアピン。

 バドミントンを形作る基本のショットにして全ての形。どんな弱い選手も、世界で一位の選手も、同じ型を使って試合を作る。それなのに、自分と彼らの違いは何なのか。

 答えは決まっていて、違いなどなく、誰もが同じ手段で打っているのだ。自分が持つラケットと同じ物――正確には、メーカーや種類によって多少は異なるのでほぼ同じ物――を使っている。しかし、そこには明確な違いはないはずだ。少なくとも、プロではないのだから。

 バドミントンにはラケットにいくつか種類がある。

 簡単に分類すると、重いものと軽いもの。全体的な重さの違いということを指しているが、中にはラケットヘッドだけの軽い重いの違いがあるケース。女子のスマッシュが得意な選手は、基本的にラケットヘッドは重い。自分の腕の力とフォームの正確さによって、スマッシュは威力を大きくするが、それにラケット自体の「力」を上乗せできる。逆にネット前のプレイを得意としている選手は、ラケットヘッドが重いと手首での微妙なタッチの変化ができないために軽い物を選ぶ。

 他にもいくつか要素はあるらしいが、知美が分かるのはこれくらいの範囲。四角形や五角形で5段階評価を表しているし、たまに先輩や他の部員が使っているラケットを使わせてもらうが、重さ以外の違いは分からなかった。おそらくは、世界で戦いような選手に関係することなのだろう。自分のように市内でも優勝するのが難しいような選手には大した問題ではないのだ。先輩達のように市内で勝ち進み、地区大会や全道大会でも勝つことができて、全国に出るような人間ならば、やはり違うのだろうか。


「先輩達も、引退かぁ」


 自分が発した声が耳に入り、思った以上に寂しそうだったことに驚いた。中学に入学してからずっと先輩の背中を追ってきた。特に憧れた、小学校時代から上に立ち続けた人は、一つしか違わないのに自分よりも大人びていて、美しかった。

 一年が経って最後のインターミドルで各々の成績を残した先輩達は夏を最後に引退する。部で恒例の引退式を行い、その後、部長や副部長などの引継が行われる。引退式当日や引退式の次の部活で発表という差はあるが、だいたいはその日までに誰がどの役職になると言うことは内定しているし、特に辞退ということもない。


「私が部長なんて……自信ない」


 すでに顧問からは知美が次期部長として部を引っ張っていくように指示を受けていた。断ることもできたかもしれないが、知美自身、あまり人からの頼みごとを断れるタイプではないこともあり、自信なく頷く程度しか反論ができなかった。ただ、実際のところ部長としてやっていけると判断してもらえたというのは嬉しく、やってみたいとその場では思えたのだ。

 時間が経つと共に期待に応えようと燃えた気持ちは消えていき、先が見えない暗闇の中を進むことへの恐怖が勝っていく。

 自分に皆をまとめあげることができるのかという根本的な疑問に対して答えが出ない。

 同学年とは仲は良いかもしれない。しかし、それだけに部長としての威厳は保てそうになかった。

 一年生には一人、頭を悩ませる存在がいる。

 自分よりも圧倒的にバドミントンの実力がある下級生。

 基本的に実力がある者が部長になるが、今回の知美に関しては当てはまらない。同期も下級生もそのことは分かっている状況で自分はちゃんとやっていけるのか。自分が自信を持って指示を出しているイメージを知美は全く想像できなかった。


「モヤモヤするなぁ」


 知美は眠気に引っ張られそうだった体を起こして部屋着を脱ぐと、ジャージに素早く着替えて部屋から出た。階段を軽快に下りていって居間に入る扉の前に立つと、母親にランニングに言ってくると告げる。

 時間の遅さからか止めた方がいいと言葉が返ってきたが、知美は既に玄関に置いてあった靴を履いて即座に外に出ていた。母親がドアを開けてくる前に家の前の道路に出る。ランニングする方向は決めていなかったが、とっさに右側を選んで進んでいた。家から離れるために最初の数分間は全力に近い早さで駆け抜けて徐々にペースを落とし、近くの公園にたどり着く。準備運動をしていないということで一度止まって、屈伸から始めると、今更ながら走り出したのによく怪我をしなかったと怖くなったが、結果オーライということで忘れることにした。

 足の筋肉をほぐすことを中心として運動を続けながら、知美は周囲の状況を確認する。八月の夜は気温が高い。湿度がそれほどでもないことが救いだが、走っていくうちに汗をかなり多くかいてしまうだろうと予想がつく。夜ではあるが星がいつもより多いのか明るく感じ、母親が気をつけろと言っていたであろう暗いところもそんなにない。大きな街や、二十三時など深夜ならば変質者もいるかもしれないが、居間の時計を盗み見た時には午後八時を回ったところ。大きな市の衛星都市である自分の街でそういった被害がニュースになったことはない。


(私みたいな子は襲われないって)


 特に花もなく部長として前に立てるようなリーダーシップもいまいちな自分ならば見向きしないと結論づけて、知美はランニングを再開した。夏休みの間にたまに走っていた早朝ランニングのコースをなぞることにする。距離は四キロくらいで、今の知美ならば楽に走れば二十分くらいで走りきれるだろう。頭を空っぽにして、汗をかいて負の感情を洗い流すためのランニングなのだから必要以上に疲れることもない。

 走り始めると徐々に頭の中がシンプルになっていく。そもそもランニング中に他のことを考えると自転車や車、歩行者にぶつかる可能性が高まるために集中する必要があるからだ。知美は速度をあげてリズミカルにアスファルトを踏んでいく。夏の夜は他の季節よりも歩いている人が多い。知美の進行方向の逆からちらほらと人が流れてくるのを見て――浴衣の女子を見かけて――今日、どこかでお祭りをやっていたのだと悟る。


(人多そうな時に走っちゃったな)


 少し考えてから知美はコースを変更した。横道にそれてから頭の中でコースを再編する。だいたい頭に入っている地図に自分のルートを赤く線を引いた。あまり人がこなさそうなコースを選んで走っていくと、知美の予想通りに人がまばらになる。人とぶつかることもこれでなくなるだろうとほっとした瞬間、後ろから足音が聞こえた。


(――さっきまで、足音あった?)


 急に現れたような足音は、徐々に自分へと近づいてくるようだった。知美は足を早めて振り切ろうとするが、逆に足音は近づいてくる。自分よりも速く駆けてくるのは、追いかけてくるから。

 出かける時に聞こえた母親のかすかな心配の声が、はっきりと聞いたわけではない言葉が輪郭を持って何度も知美の中に再生される。体を流れる汗に冷たい物が混じって、知美はとりあえず明るい場所に出るために速度を上げようとした。しかし、すでに知美の最高速度に近いところまで到達していたために、足がもつれて前につんのめる。体勢を立て直すために一度止まって右足で体重を支え、転ばずにすんだ。安堵のため息をついたまでは良かったが、その間に足音はすぐ傍まで来ていた。


(――ひっ)


 最終手段。大声を出そうと口をあけた瞬間、声が聞こえた。


「寺坂。大丈夫?」


 聞きなれた声に振り返ると、そこには見慣れた姿があった。半袖Tシャツにハーフパンツ姿。息を少し切らせつつ、知美を心配している様子が特に見える視線を向けていた。


「早坂、先輩」


 バドミントン部の前部長の姿に知美はほっとため息をもらした。



 * * *



 早坂由紀子。

 小学生時代から町内会のサークルで共にバドミントンをしてきた先輩。そして、バドミントン部の前部長。近年では最高の成績を残して、中学卒業後の進路にも注目されている。そんなバドミントンプレイヤーを昔から知美は尊敬していた。容姿もロングヘアを試合の時はポニーテールにしており、顔立ちも可愛いというよりも綺麗な部類に入る。手足も長くしなやかな筋肉と共にコートを舞う様は人目を惹いた。

 実力もあり、リーダーシップもある。いつか同じような選手になりたいと考えていたほどだ。その夢も中学に入れば消えてしまったけれど。


「一人であんなところ走ってちゃ危ないでしょ。理由は分かるけど。お祭りから帰ってくる人を避けてたんでしょ」

「そ、そうなんです。早坂先輩もこっちにきたのは同じ理由ですか?」

「私は最近、朝はこっちの方を走ってるのよ。さすがに今日は通る気なかったんだけど、見覚えのある人影が見えたから追ってみたってわけ」


 話せる程度の速さで二人は併走していく。知美は会えるとは思えなかった人物に会えたことで少し舞い上がっていた。明日、引退式で会えるが、試合をして引退の言葉を聞いてとイベントの流れの間くらいしか接する機会がない。寺坂知美と早坂由紀子の会話をするのは今、この時しかない。


「先輩。少し、お話、いいですか?」


 遠慮がちに知美が告げると、早坂は即答で了承した。ランニングを続ける先に小さな公園があると分かっていたため、そこで休みながら話そうということになり、ペースを上げて向かう。たどり着いた公園は周囲を住宅に囲まれた小さな場所で、街灯も中央に立っていた。

 走るのを止めて柔軟運動をする間に知美は早坂へと言った。


「こんなところにも公園があったんですね」

「いつもなら、ここを折り返しにしてるのよ。クールダウン場所。ちょうどいい位置でしょ」


 知美と早坂の家は近い場所にある。早坂のランニングコースは知美と被ってもおかしくはないと改めて思った。部を卒業し、高校に入ればもっと遠くなるかもしれないが、こうして近い時もあるのだろう。思ったよりも近くにいるという感覚が知美に口を開かせた。


「あの、バドミントン部。お疲れさまでした。引退寂しいです」


 言いたいことは溢れてくるが、その中から言葉にすぐできる部分を口にする。中学生の時だけではなく、小学生の時から一緒にバドミントンをしてきて、一つ年上の「お姉さん」として。中学からは「先輩」として自分の前に立ち続けた人への感謝はいくつかの言葉だけでは表現しきれない。早坂は一言「ありがとう」と返して柔軟運動を続けていく。数分経って運動を終えてから息を深く吐いて気持ちを落ち着かせる。


「何。話って」


 知美が落ち着いた頃を見計らい、早坂は声をかけてきた。知美の方に顔を向けて話を聞こうとする体勢。知美も柔軟体操を止めて深呼吸をしてから言った。


「部長についてのことなんです」

「部長……ああ、明日、部長に任命されるんだよね。そうだと思ってた」

「あの、早坂先輩に質問なんですけど、どうして、私が部長に任命されるって、思ってたんですか?」


 本当は自分が部長に向いているのかどうかを聞こうと思っていた。だが、早坂の言葉の中に気になる単語が入っていたことで、それを確認した方が早いと思えたことで、質問を変更する。

 自分でさえ自信がない部長という職に対して、早坂はどの程度かは分からないが確信を持っていたようだ。


「ん? 私の中じゃ寺坂一択だったよ?」

「それが、どうしてなのか分からないと言いますか、自信がなくて」

「なんで、自信がないの?」


 急に視線を合わせられなくなり、早坂の足先へと視線を落とす。自信がないのは実力がないからだ。元々同学年で優劣などないはずの部活にとって一つの差別化が図られるのが技量、実力だ。早坂や、男子の部長のように、実力が最も高い人ならば、部長としてリーダーシップをとれる気がするが、自分ではそれを満たせない。


「寺坂はダブルス選手だけど。二年の中じゃ一番強いでしょ? それで条件は満たしてる気がするけど」

「二年じゃ、一番ですが。部で一番じゃありません」

「ああ、朝比奈か」


 年下の少女の姿が思い浮かぶ。入学式の直前に知美達の街に引っ越してきた女子。クールで取っつきづらく、知美もまだ数えるほどしか話したことはない。その朝比奈が、率先して話しかけていたのが、早坂だった。

 朝比奈が心を開く理由は、早坂が自分よりも強かったことだ。北海道外からやってきたことで道内での戦績はなかったが、目の前の早坂がいる間は入部当初から実力は二番。早坂が抜けた後は他の選手とは一線を画した強さで部内でも一位の強さとなる。


「私、朝比奈さんとうまくやれる自信がなくて。他の一年も私より朝比奈さんのほうをとる気がして……私より強いし」

「そうね……そういう問題は起こるかもしれないけど、解決するのは寺坂や、寺坂の世代だと思うよ」


 早坂はあっさりと告げる。知美はそれほどショックを受けていない自分を自覚した。自分でも分かっていたのだ。もう早坂は卒業し、自分の道を進み始める。バドミントン部は過去の物だ。現在を守るのは、知美達しかいない。


「分かってます。分かってて、愚痴を言っちゃいました」

「うん。愚痴も、相談もしていいと思う。今の相談は、朝比奈と仲良くするにはどうしたらいいかってことでいい?」

「あ、はい……」


 早坂は腕を組んで上を向き、考える。目を閉じて脳内でいろいろと映像を動かしているのか、自然と体が揺らめいた。

 そして、目を開いて知美を見る


「朝比奈が私に一番話しかけたのは、きっと私が部で一番強かったからだと思うのよね」

「はい……そうだと……」

「朝比奈は、焦って強くなろうとしてるように思えたのよね。早く強くなりたいから、自分より強い私と練習して強くなろうとした。だから、寺坂は、別方向で朝比奈に認めさせるしかないんじゃない?」

「別の強さ。たとえば……?」


 知美の問いかけに早坂は頭に手を当てて考えたが、すぐに横に振った。申し訳なさそうに「思い浮かばないや」と呟く。


「ごめん。私が出せるヒントは、今はここまで。もう少ししたらアドバイスできるかもしれない」

「今のでも十分です。ありがとうございます」


 知美は会話を終わらせて、早坂に礼を言う。これ以上アドバイスをもらうのに気が引けたこともあるが、今のでも十分もらえたと思えたからだ。あとは、自分の力で、自分と同学年の皆の力で何とかしていくことが、引き継ぐことになる自分達の役目だと思えたから。

 早坂は会話の終わりの提案に頷いたが、一つだけと寺坂に言った。


「寺坂。もう少し、肩の力を抜いた方がいいよ」

「よく言われます」 


 苦笑して頷いてからランニングを再開する。早坂も共に走り出し、結局最後まで一緒に走り抜いた。

 知美はまたランニングの中で一度思考をリセットする。頭にかすかにひっかかる、肩の力を抜くと言うこと。それができないのは自分でだと分かっていても改善できない。


(別の強さ……かぁ)


 考えても今の自分には思いつかないと、知美はまた走り出す。先が見えなくても前に進めば何かがあるかもしれないと信じて、家を出る時よりは軽快に駆けて行った。

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